だまされたと思って10年間辛抱してみい
「それで、今きみは何をしてるのや?」
「調合場で真っ黒になって実習しています」
調合場は、乾電池の中味である黒鉛や二酸化マンガンなどを調合するところで、当時は、手も顔も作業服も真っ黒になる最も汚れの激しい仕事場の一つであった。
「それは考えと違ってえらいところへ来たな。しかし、松下電器というのはええ会社やで。きみ、わしにだまされたと思って10年間辛抱してみい。10年辛抱して、今と同じ感じやったら、わしのところにもう一度来て、頭をポカッと殴り、『松下、おまえは、おれの青春10年間を棒に振ってしまった!』と大声で言ってやめたらいいやないか。わしは、たぶん殴られんやろうという自信を持っておるんや」
20年ほどのち、その新入社員は乾電池工場の工場長になった。
*みずから認識できる適性もあるだろうが、さまざまな仕事の経験から発掘される適性もまた確かなところがある。幸之助は両方を大切にしていた。
きみがやればやるだけ業績が上がる
昭和30(1955)年、東京営業所の無線課長が、九州の小倉営業所へ所長として転勤せよ、との内示を受けた。
働き盛りの35歳、明らかに栄転であった。しかし、その心は必ずしもはればれとしたものではなかった。
“営業所長ともなれば、地域全体の経営、販売、人事と、すべてのものを見ていかなければならない立場だ。それに加えて、九州は以前、松下の勢力が強く、いわば金城湯池の地であったというが、最近は「家庭電化ブーム」で市場が戦国時代に突入し、松下の勢いも下がり気味で、きわめて厳しい状態だという。これはたいへんなところへやられるな……”
東京での生活が長かったその課長にとって、九州はまた、遠い、見知らぬ土地でもあった。
そんな内心の不安を隠して辞令交付に臨んだ課長に、幸之助はこう言葉をかけた。
「きみ、今度は九州だよ。九州はね、実は今、状況が悪いんだ。昔はものすごくよかったんだが、今はいうなれば最低の線だ」
「……」
「ということはだね、きみがこれから行って何かをすれば、そうしたぶんだけ必ず業績が上がるということだ。もうこれ以上悪くはなりようがないんだから。
一所懸命やっても業績が上がらんというところもある。しかしね、きみがやればやるだけ業績が上がるというのは、きみ、いいところへ行くね。幸せだよ、きみは」