「きみ、あしたから会社をやめてくれ」
昭和30(1955)年ごろのことである。新型コタツの発売に踏み切った直後に、誤って使用されれば不良が出る恐れがあるとの結論が出て、市場からの全数回収が決定された。
その回収に奔走していた電熱課長がある日、幸之助に呼ばれた。
「きみが電熱担当の課長か」
「はい、そうです」
「会社に入って何年になるかね」
「18年になります」
「きみ、あしたから会社をやめてくれ」
「………」
「今、会社をやめたら困るか」
「困ります。幼い子どもが2人いますし……」
「それは金がないからだろう。きみが困らないように金は貸してやろう。その代わり、わしの言うとおりにやれよ」
「はい……」
「会社をやめて、しるこ屋になれ」
「………」
「まあ、立ってないで、その椅子に座って。きみは、まずあしたから何をやるか」
「新橋、銀座、有楽町と歩いて、有名なしるこ屋三軒を調査します」
「何を調査するのや」
「その店がなぜはやっているのか、理由を具体的につかみます」
「つぎは?」
「そのしるこに負けないしるこをどうしてつくるか研究します。あずきはどこのがよいか。炊く時間と火力、味つけなどです」
「おいしいしるこの味が決まったとしよう。ではそのつぎは?」
「………」
しるこ屋の100倍、200倍の努力が必要
「きみ、その決めた味について、奥さんに聞いてみないかん。しかし、奥さんは身内やから『うまい』と言うやろ。だから、さらに近所の人たちにも理由を説明して、味見をお願いしてまわることや」
「はい、必ずそれをやります」
「自分の決めた味に自信を持つこと。それから大事なのは、毎日毎日、つくるごとに決めたとおりにできているかどうかみずからチェックすることや」
「必ず実行します」
「それだけではまだあかんよ。毎日初めてのお客様に、しるこの味はいかがですかと聞くことが必要やな」
「はい、よくわかりました」
「きみはそのしるこをいくらで売るか」
「三店の値段を調べてみて、5円なら私も5円で売ります」
「それでいいやろ……、きみが5円で売るしるこ屋の店主としても、毎日これだけの努力をせねばならない。きみは電熱課長として、何千円もの電化製品を売っている。だからしるこ屋の100倍、200倍もの努力をしなくてはいけないな。そのことがわかるか」
「はい、よくわかります」
「よし、きみ、今わしが言ったことがわかったのであれば、会社をやめてくれは取り消すから、あしたからは課長としての仕事をしっかりやってくれ」