作詞家になることを夢見ていました
じつは私は子どものころから演歌が好きで、いつか作詞家になることを夢見ていました。大人になって会社を経営するようになってからも、暇を見つけては作詞をしていました。趣味ではないですね。だって、本気でプロになろうとしていましたから。通信教育で10年やって、教室にも7年間通いました。作詞は机に向かっているだけではできないので、波止場や列車のある情景を見るために各地に旅行もしました。
2003年ごろ、富士そばは60店舗に達していました。ここまでくれば、もう食うには困りません。もともときちんと食べていくために始めた商売でしたから、もう経営から退いて作詞家一本で生きていこう。そう考えて準備もしていました。
そんな私を一喝してくれたのは、漫画家の東海林さだおさんです。東海林さんは西荻窪店の近くにお住まいで、店のメニューを片っ端から食べるという富士そばのファンでした。その縁からある雑誌で対談させてもらったのですが、私が作詞家になりたいと伝えたら、「君を信頼して働いている人はどうなるんだ」と叱られました。ハッとしましたね。たしかに私は自分のやりたいことしか考えていなかった。それは無責任だと反省して、作詞家の道はきっぱり諦めました。
いま私の名刺には、東海林さんが描いてくださった富士そばのイラストが印刷されています。これを見るたび、あのとき経営をやめてなくてよかったとつくづく思いますね。
(構成=村上 敬 撮影=小野田陽一)