時には「普通」にひれ伏すことも必要

「ちょっといいかな」奥様に呼ばれた。このフレーズは僕に何か注文するときの常套句である。「何かな」「洗面台を使い終わったら、水で流してもらえませんか?」「どういうことかな」見当がつかないので僕は尋ねた。

フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)

「こんなことはあまり言いたくないけど」と前置きをしてから彼女は続けた。「毎朝、そり落としたヒゲや吐いた痰がへばりついていて、イヤな気持ちになります」寝ぼけていて流し忘れることはあるが、毎朝は大袈裟だろう、という気持ちを抑えつつ、「ごめん。気を付けるよ」と謝った。

「気を付けてね。普通はあとに使う人のために流すからね。それが常識だよ」と彼女は言った。

出たよ。普通に常識的。反抗の狼のろし煙を上げよう。キミの言う普通は本当に普通なのか、常識は常識であることを確認したのか、詰問しなければならない。それが僕のやり方だからだ。

「ちょっといいかな」「何ですか」「ホントにごめん。この通り謝る。明日からは普通の人がやるようにきちんとするから。常識的な人間になれるように努力するから、許してチョンマゲ」僕は言った。

「普通は」「常識的に考えて」を忌み嫌う気持ちは1ミリも揺らいではいないけれど、それを押し通すことで甚大な被害が予想されるときは、あえて普通や常識的に白旗を上げることが必要なこともあるのだ。自分の考えを曲げなくても、曲げるふりをしなければならない……人生の難しさとやりきれなさはそういうところにある。

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