徹底したネガティブカフカの矛先は「自分」
カフカは周りから好かれていた――とてつもなくネガティブだったのに。私は、文学作品を紹介することを生業にしています。紹介する作家のなかでも私が人生のお手本にしているのは、フランツ・カフカです。『変身』で知られる20世紀文学の巨人ですが、その人物像は徹底してネガティブで、愚痴の多い人でした。普通、そういう人は周りから煙たがられます。ところがカフカは、なぜか多くの人に好かれていた。相反するはずのものが一人のなかに同居している――その不思議さに私はずっと惹かれてきました。
たとえば、同僚たちが「俺たちは会社の歯車だ」と自嘲したとき、カフカは「歯車になれるなんてすごい。自分はとても歯車になれない」と返したと伝わっています。そして彼の感心ぶりは徹底していて、子供が走ってくるのを見れば「なんて見事に走るんだろう」、その子が転べば「なんて見事に転ぶんだろう」と言うほどでした。
彼が愚痴をこぼしても好かれたのは、その矛先が、常に自分自身に向いていたからです。カフカは自分のことはとことん責めますが、人のことは決して責めない。むしろ、自分にできないことができる相手に、いつも感心している。だから周りの人は、彼のそばにいると、自分のいいところを見つけてもらえたのです。つまり、好かれる愚痴と、嫌われる悪口を分けるものは、ネガティブな感情を自分に向けるか、他人に向けるか。その一点なのです。
私はこれまで、ポジティブな言葉よりむしろ、ネガティブな言葉にこそ人を励ます力があるのではないか――そんな思いで文学を紹介してきました。ここでは同じネガティブな言葉でありながら、愚痴と悪口がなぜ似て非なるものなのか、なぜ悪口を言ってはいけないのかを考えてみたいと思います。
一人に悪口を言われたら十人の称賛でも足りない
同じネガティブな感情でも、それを他人に向けた瞬間に性質が変わります。
他人に向かう強い言葉には、「批判」と「悪口」があります。私の理解では、批判とは言動の否定であり、悪口とは存在の否定です。批判は相手のしたことへの指摘ですから、相手はそれを直すことができます。けれども悪口は、直しようのないことを突くものです。「人を殴るのはいけない」は批判ですが、「殴ったおまえはダメな人間だ」は悪口になる。「おまえのしたことはダメだ」と「おまえはダメだ」は、似ているようで、まったくの別物なのです。
私には、他人や作品を悪く言わないようにしようと決めた、きっかけの出来事があります。ある映画の結末があまりにひどく、腹が立って、その不満をSNSに書きかけていました。ところが同じ映画について、「これは自分にとって大事な映画だ。これに感動して、人生の支えにしている」とまで書いている人がいたのです。映画はもう出来上がっている以上、私が悪く言ったところで直せるものではありません。私の怒りの投稿を目にしたら、その人はきっと傷つくでしょう。自分がどれほどひどいと思っても、誰がどこでそれを心の支えにしているかはわからない。正当な指摘のつもりでも、悪口になりうるのだと気づかされました。
たいていのものは、ケチをつけるのは簡単です。あの映画も、本当はうんと悪く言いたかった。それをぐっと抑えて一言も言わずにいるのは、最初は辛いものでした。ところが、しばらく続けていると、不思議と辛くなくなってくる。むしろ、いいところを見つけて褒めていると、悪い点をわざわざ指摘しなくても気が済むようになる。これは、私にとって大きな発見でした。
というのも、他人への悪口は、口にするほどにエスカレートしていくものだからです。粗を見つけるのがどんどんうまくなり、悪口の量も増えていく。やめようとすると辛い。その意味で、悪口は酒やたばこによく似ています。
悪口がエスカレートすると、やがて本心から離れていきます。ただ誰かを攻撃したいから言う、という段階に入ってしまう。悪口が指すのは、相手の欠点です。欠点は、何らかの共通の基準に照らして「劣っている」とされるものですから、「バカ」や「無能」といった決まった型に収まりやすい。だから悪口には、いくらでも使い回せるテンプレートが存在します。
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