期待や不安を抱くことが「負の感情」につながっているのではないか。精神科医で禅僧の川野泰周さんが語る、執着を「手放す」以上に大切なこととは――。

「足るを知る」ことが「上機嫌」への近道

嫌な出来事に直面したときに怒りや後悔、嫉妬に駆られる人とすぐに切り替えられる人――この違いは何なのでしょうか。精神科医として負の感情に苦しむ多くの方と向き合う一方、禅僧として心を穏やかに保つ知恵にも触れてきました。両側から見えたのは“負の感情”の受け止め方の違いでした。

川野泰周(かわの・たいしゅう)
川野泰周(かわの・たいしゅう)1980年、横浜市生まれ。精神科医・禅僧。臨済宗建長寺派・林香寺 住職、石川町ひだまりクリニック院長。禅とマインドフルネスを取り入れた心理療法に取り組む。著書に『ずぼら瞑想』(幻冬舎)など。

そもそも、なぜ人は負の感情を抱くのでしょうか。心理学ではすべてのネガティブな感情は、基本的に自分の身を守るために必要なものだと考えます。「恐れ」は危険を遠ざけ、「焦り」は危機感を抱くことで自分を駆り立てるため。「悲しみ」はつらい記憶を反芻はんすうすることで、同じ轍を踏まないよう備えをしておくためなのです。

負の感情自体は自然にわいてくるもので、それ自体が悪いわけではありません。問題は、わいてきた思いに囚われてしまうことです。「望む未来が実現しなかったらどうしよう」と延々と考えてしまったり、「あのとき、ああしなければよかった」と何年も考え続けてしまうなど、不安や後悔の念に固執すると、感情が加速して実際の出来事以上の苦しみになってしまうのです。

では、どうすれば“負への執着”から自分を解放できるのでしょうか。お釈迦様は修行の果てに「一切皆苦いっさいかいく(すべてのものごとは苦しみである)」という悟りを得られました。すべてが苦しみであるというのは「思い通りにいかないのが世の中だ」ということです。

私たちはつい「やさしく接してほしいのに、なぜそうしてくれないのか」「会社はもっと自分を評価するべきだ」などと考えてしまいます。これを認知療法的には「べき思考」といいます。思い通りにいかない世の中で「こうであるべきだ」と憤ったところで、それは満たされない願いです。それならば、「足りていることもあるじゃないか」と現実をとらえ直してみる。これが「知足ちそく(足るを知る)」で、精神医学的にいえば、自らの認知を修正することです。現実を受け入れ直すと、執着は少しずつゆるんでいくはずです。

負の感情をなくそうと思えば思うほど、かえって囚われてしまうのが人間です。「シロクマのことだけは考えないでください」といわれたとたん、普段はまったく考えないシロクマについて考え始めてしまうという有名な実験が示すように、忘れようとするほど意識してしまうのが私たちの脳です。

負の感情から身を守り、「上機嫌」でいられる人は、ストレスを上手に受け入れて、乗り越えてきた人です。負の感情はなくそうとするのではなく、「受け入れ直す」のだと思ったほうがよいのです。そのための具体的な方法をお話ししていきましょう。

期待しない 半々で失敗すると思えば落ち込まない

「きっとうまくいく」と同じくらい「心配」を持つ

人や出来事にがっかりしてしまうとき、その裏側には必ず「期待」があります。もちろん期待すること自体は悪いことではありません。何かに挑戦しようという意欲を抱くのは、期待するからこそですし、期待するから人間は自分が思い描いた成功に向けて努力し、成長します。

しかし期待しすぎると、それが叶わなかったときの落胆も強烈です。「絶対にあの会社に採用されると思っていたのに、面接で落ちてしまった。あの会社で働けないなら、もう就職なんかしたくない」というように、極端な無気力に陥ってしまうこともある。

あるいは「期待通りにならなかったらどうしよう」という不安も、期待の裏返しだといっていいかもしれません。

また、部下や子供など自分以外の人に期待しすぎることもあります。期待された本人はうれしい半面、精神的な重圧を感じてしまうかもしれない。

そもそも仏教は「中道」を重んじています。何ごとも、「しすぎ」はよくないし、「しなさすぎ」もよくない。ですから、期待も程度の問題で、ほどほどの期待を持つことで豊かな人生が送れるのではないでしょうか。

ではどうすれば、ほどほどの期待が持てるのか。私たちにできるのは、「心づもり」をしておくことだと思います。つまり期待通りにものごとが運ばない可能性についても考えておく。起こりうる可能性をいくつかリストアップして、そうなった場合について思いを巡らせておく。それを理解し、受容する。そんな先見の明を持つよう、できるだけ心掛けることでしょう。

一方、「期待」と表裏一体の関係にあるのが「心配」です。いま日本中、いや世界中で、非常に多くの人が「不安障害」で悩んでいます。これは将来を心配する気持ちが強くなりすぎた疾患だといえます。

成功することを心配する人はあまりいないでしょう。期待するときは成功を予測し、心配するときは失敗を予測しており、この2つのバランスでものごとは成り立っています。「うまくいく可能性もあるけど、うまくいかない可能性だってあるよな」というように、うまくいってもいかなくても、プロセスを大切にすることが重要なのです。

つまり、結果にこだわりすぎず、プロセスを楽しむというのが仏教的な考え方です。「因果応報」という言葉は、「ものごとの結果は最初から決められている」という意味ではなく、「自分の日々の行動の積み重ねが人生を形成していく」という考え方です。その中でプロセスを重んじた思想が仏教ではないかと私は思っています。

では、プロセスを重視するとは具体的に何かというと、一挙手一投足を丁寧に行うことです。歩く・立つ・座る・寝るといった当たり前の行為にさえも心を配る。これを「行住坐臥ぎょうじゅうざが」といいます。どのようなときであっても、このすべての動作を心をこめて丁寧に行うこと。一挙手一投足に意識を向けること自体が修行になると、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は言いました。「この瞬間に意識を向けて、マインドフルに生きなさい」と言っているわけです。

【図表】ほどよい期待と不安の「中道」で極度の落胆を防げる

成功という結果を求めるのが修行ではありません。よく「瞑想すると何が得られますか?」「坐禅するとどんないいことがあるんですか?」と聞かれますが、たいていの和尚さんは、「何にもならん」とおっしゃるでしょう。本当は何にもならないわけではなくて、いろいろなメリットはあります。でもそれを期待して行うのでは、修行にならないよということです。

結果がどうなるかにこだわるよりも、「今、この一瞬を大切に過ごそう」「今日この仕事に全力で取り組もう」と、「今」に注力するのが、期待や心配から解放されるいちばんの近道。その結果、私が「モメンタム」と呼ぶ、やる気に満ちて活力のある心で、生き生きとして過ごすことにつながります。

比較しない 「できない」を認めると劣等感が消える

人と比べて勝っていてもそれはかりそめの安心感

人と自分を比べ、その優劣に囚われてしまう――これも執着の一つだと、おわかりでしょう。しかし、わかっていても、これがなかなかやめられない。「他人と比べて、自分は優れている」とか、「これで自分はあの人に勝った」というように、他者との比較で得られる満足感を、心理学では自尊感情(セルフ・エスティーム)といいます。この自尊感情に囚われている限り、上機嫌でい続けることは難しい。

なぜなら、「とりあえず今は上のほうにいるから大丈夫だ」というような安心感は得られるかもしれません。しかし、永遠に勝ち続ける保証はなく、いつ負かされるかわからない。これでは本当に安心して生きているとはいえません。「今のところは大丈夫だろう」という、かりそめの安心感でしかないのです。常に自分の立場が損なわれないように努力を続けた結果、最後に「なんと空虚な人生だったのだろう」と感じることもあるかもしれません。

スティーブ・ジョブズは2005年のスタンフォード大学卒業式講演で「死を前にすると、外からの期待・プライド・恥や失敗への恐れはほとんど剥がれ落ち、本当に大切なものだけが残る」というようなことを語りました。彼はずっと競争社会の中で生きてきた人です。世界中から羨ましがられるような立場になっても、ずっと結果を出すことに追いかけられていました。仏教的・心理学的には、それは必ずしも幸せとはいえないかもしれません。

自分自身と比べるのも辛いことだと思います。高齢になって若い頃の自分と比較すれば、当然、できないことのほうが多い。会社を定年退職して肩書がなくなったとたん、うつ状態になったり、引きこもりがちになったりする人も少なくありません。やはり比較して一喜一憂すること自体が、苦しみを引き起こしているのです。

では、比較で得られる「自尊感情」の代わりに何を重視すべきかというと、「自慈心(セルフ・コンパッション)」、つまり自分を慈しむ心です。

これは自らを慈しんでいる状態ですから、人と比べてどうこうではなく、今ここにいる自分を大切にする気持ちです。自慈心が持てるようになると、自然と他者に対して思いやりを持って振る舞うことができる。これを仏教用語では「自利利他円満」といいます。

あらかじめ自分を下げて見積もることとは違います。比較という概念から自由になるといえばいいのかもしれません。自分の欠点を見ないようにすることとも違います。むしろ自己を非常に細かく観察していきます。

より細かく見ていくと、必ず自分のいいところやダメなところが出てきますが、仏教ではそれをまるっと受け入れます。完璧な人は誰一人いないのですから。

自らを慈しむ心が育ってくると、他人に勝つために頑張るということはなくなってきます。人を負かすとか、みんなと比べて自分の価値を上げようなどということは、もうどうでもよくなります。それよりもっと大きなもの、たとえば自然環境とか、国際社会とか、あるいは自分の家族やまわりの人でもいいのですが、自分以外の人のために努力を惜しまなくなります。

【図表】「自慈心」を持って他人と比較せず自分の人生を大切にする

決して自分を甘やかして努力しなくなるわけではありません。むしろ自分以外の誰かのために頑張るとき、私たちはすごく充実感を感じます。逆に自分の価値を上げるために頑張っている間は、常に結果にこだわってしまいます。「また負けた」とか、「また馬鹿にされた」とか、「またあいつのほうが表彰された」とか、そういったことから自由になるのが自慈心です。

それでも比べる気持ちはなかなか手放せないと思います。私たちは資本主義の競争の中で育てられたし、今もなおその中で生きています。でも比べたい気持ちが出てきたら、パッと目の前のタスクに注意を戻す。そんな訓練を日頃からしておくことが大事です。

反応しない 不快を無視するには、まず脳を休める

すぐにイライラするのはスマホで情報過多のせい

些細な一言やちょっとした刺激ですぐ心がざわついてしまう。「感受性が強い」「繊細である」という見方もできますが、そのせいで動揺や気疲れを生んでいるとしたら、やはり問題です。

ちょっとした不快な刺激にすぐ反応してしまうのは、脳科学的に見ると、脳の扁桃体というところが活動を止められなくなっているのかもしれません。ダニエル・ゴールマンという心理学者は「扁桃体ハイジャック」という言い方をしました。どういうことかというと、感情の中枢である扁桃体が過剰に活動しているとき、それを止めるのは理性の中枢の内側前頭前野です。しかし内側前頭前野の働きが弱くなっているとそれを止められず、ちょっとしたことにすぐ反応して、ネガティブな感情に囚われてしまいます。

【図表】ストレス過多になると感情を抑える働きが弱まる

自分の感情を客観的に見ることができると、悪い感情の加速は止められます。私たちは誰でもなるべく怒りたくありませんから、「あ、今なんかちょっと怒りかけているぞ」と気づいたら、「ちょっと考え方を変えてみようかな」とか、「深呼吸しよう」とか、いろいろな方策がとれます。でも内側前頭前野が疲れて客観視ができないと、反射的に反応してしまい、カッとなって暴言を吐いたり、場合によっては手が出たり、すぐ涙が出たりします。

内側前頭前野を正常に働かせるには、いつも働きすぎて疲れている内側前頭前野を休ませてあげることです。常に情報過多の環境にいたり、ストレス負荷が強かったりすると、内側前頭前野は疲労で十分に働けなくなってしまう。すると扁桃体のやりたい放題になってしまうというわけです。そこで情報過多を適度にコントロールしたり、脳の働きすぎを休めたりするような習慣を持つことが重要になります。

もちろん敏感さや繊細さ自体が悪いわけではありません。逆に言えば芸術分野などでは強みにもなりえます。問題は現代人がマルチタスクを強いられたり、スマホでひっきりなしに情報を見たりするせいで、脳を使いすぎている可能性が高いことです。

「最近ちょっとしたことで急に機嫌が悪くなったり、イライラしがちだな」「なんだか涙もろいな」「いつも楽しめる趣味が全然楽しめなくなっている」「何を食べてもおいしくない」というようなことがあれば、それは脳の使いすぎのサインかもしれません。脳疲労をそのまま放っておけば、うつなどの不調につながることもあります。現にいま挙げたサインは、すべてうつ状態の徴候として挙げられるものです。

それから内側前頭前野の疲労が、原因不明の体調不良としてあらわれる場合もあります。胃カメラで検査をしても異常がないのに胃もたれが治らない。大腸カメラで見ても異常がないのに便秘と下痢を繰り返している。原因不明の体調不良は、自律神経の乱れから来ていることが多いのです。内側前頭前野のパフォーマンスが落ちると、扁桃体の過活動などを介して視床下部のコントロールが不十分になり、自律神経系による体調のコントロールがきかなくなるのです。気になる症状が続く場合は専門医に相談をしてみてください。

体の検査をしても異常がないならば、思い切って休みをとって、1週間ぐらいリトリート施設に滞在し、なるべくスマホを手放して、自然を感じながら療養すると早めの回復が期待できます。

「だからといって、そんな簡単に仕事は減らせないよね」というツッコミもごもっとも。スキマ時間に、スマホを手放してデジタルデトックスをすることが大事になってきます。1日5分でもいいです。それを長く、日々繰り返していけば継続性のあるリトリートになりますから、1週間まるまるリトリートするのと同じか、それ以上の恩恵があるはずです。

繊細さは消すべきものではありません。受け入れたうえで、反応の上に考えを積み重ねない。それだけで、敏感さは弱みではなくなっていきます。

白黒つけない 一度の「しょうがない」で怒りが鎮まる

物事すべてを「善悪」で判断しない

「部下が遅刻したので厳しく叱ってやった。部下は電車が遅れたせいだと言い訳したが、遅刻は遅刻だ」

普段こういう話を耳にすることはないでしょうか。規律を重んじる心や、悪事を許さない正義感は素晴らしいものです。しかし「白黒つけたい」という正しさを握りしめると、怒りや不寛容が募ります。正しさにこだわり続けることも、執着にほかなりません。

怒りも扁桃体から起きてくるものなので、さきほど述べたように扁桃体の活動が穏やかになれば、怒りはおのずとトーンダウンしていくはずです。

もう一つは、アクセプタンスといって、心の受容性を増やしていくことが重要です。この受容性も、やはり練習によって獲得することができます。具体的には瞑想的習慣を日常から心掛けること自体が、アクセプタンスを高めることにつながります。受容性が高いということは、つまり寛容であることとイコールであると言っても過言ではない。ですから、寛容な人はめったに怒らないわけです。

ちょっとした不正も我慢できず、すぐに怒ったり文句を言ったりする人は少なくありません。そんなときは怒りの感情を受けとめて、こう考えてみてはどうでしょうか。

「今回はしょうがない。でも、どういう理由でこんなことが起きているのか、ちょっと情報を分析してみよう」

感情に流されなければ、こんなふうに建設的に心の中で理論展開できるでしょう。その結果、思考を巡らせて再発防止策を考えつくかもしれません。そのアクセプタンスをさらに高めるのがマインドフルネス習慣です。

感情を抱くこと自体は決して悪いことではありません。危険にさらされたときは恐怖を感じてハッとするとか、自分の権利が過度に侵害されようとして怒りを感じるのは一次感情ですから抑えようがありません。また、このような怒りは生きていくために必要な感情です。これがなければ詐欺に騙されたり、脅されただけで唯々諾々と従ってしまったり、あるいは危険から逃げることなく、命の危険にさらされることだってあるかもしれません。

望ましいのは感情が起きなくなることではなく、その感情が起きたことに対して、頭の中でずっと思考を続けてしまわないこと。これを止めるのに役立つのがマインドフルネスです。

感情は思考によってかなり複雑化します。これを二次感情といいますが、感情に意味付けをすることによって、さらにこじれていくわけです。たとえば、冒頭に提示した遅刻の場面。最初はただの「怒り」だったとしましょう。

怒りが最初に来てもおかしくありません。ところがアクセプタンスが不足した状態で、遅刻という出来事をその部下の存在価値に当てはめてしまうと、今度は思考がどっとあふれてきます。「遅刻は許せない」「遅刻の言い訳までしてきた。言い訳なんかいうやつはやる気のない人間だ」というように思考を伴って、人間性にまで結びつける二次感情に膨らみます。出来事そのものより、他者の価値と紐付けて解釈することが、長い期間の苦しみにつながってしまうのです。同じことが自分自身に向かえば、自己嫌悪という二次感情に陥ります。

解釈をすることによって白黒はつけられるでしょう。しかし「今・ここ」に集中して思考を止める習慣を持つことが大事です。感情が芽生えても、それについてずっと考え続けることを止められれば、グレーの状態を受け入れられるため、二次感情には至りません。「遅刻したけどしょうがない。部下は遅れた理由を伝えただけだ。今は目の前の仕事をやっていけばいい」というように、目の前のタスクに注意を戻すだけで、最終的にはパフォーマンス向上につながります。

【図表】怒りがわいても怒ったまま思考し続けない

二次感情が生まれてしまうと、ずっと頭の中でそれがループするため、パフォーマンスが下がってしまいます。そうなる前に意識を「今・ここ」に戻し、二次感情の発生を食い止めること。このことを心に留めておいてほしいと思います。

引きずらない 「今に集中」で、まっさらな心に

過去への執着はマインドフルネスで解放

過ぎたことについて考えても、どうにもなりません。それなのに私たちは、「あのとき私のしたことは正しかったのだろうか」「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」というように、過去の失敗や傷ついた出来事について、いつまでも考え続けてしまう。これぞ執着にほかなりません。

これをやめる方法は非常にシンプルで、マインドフルネスを実践することです。そもそもマインドフルネスは未来や過去に行きがちな心を、「今・ここ」に留め置くスキル。これを実践することで、過去に囚われずにいられるようになります。

過去や未来を見ず、「今・ここ」に集中することを、仏教では「前後際断」といいます。今、この瞬間を一所懸命(一生懸命ではなく、一つの所で)に生きる。今、ひとところにあるこの状況で懸命に生きるのがマインドフルネスの精神の体現ということになります。

そもそも、なぜ我々がこうも過去に執着してしまうかといえば、それは過去に学ぶことで将来の失敗のリスクを減らすことができるからです。そのために記憶を主に脳の海馬をはじめとする部位にストックしている。もし過去の記憶がなければ、私たちは失敗から学べません。たとえばクマが出たとわかっている場所に、また行ってしまったりするかもしれない。

だから過去の記憶は身を守るために必要なのですが、私たちの脳はそれほど精巧にできていないので、過剰に思い出してしまうことがあります。特にこのようなストレス社会になると、思い出さないほうがいいことまで思い出してしまう。そのせいで危険を回避するどころか、逆に自分が不利になることもあります。

たとえば、父親に非常に厳しく育てられた子供は、過去の対人関係の記憶として厳しかった父が記録され、権威的な上司など父親と似たところのある人に対して、やたらと歯向かったり、恐怖を感じてうまく話ができなかったりすることが起こります。それは父親の記憶に基づいて行動してしまうためです。

だからといって、父親のことを忘れなさいというわけではありません。父親の記憶も自分を形成する物語の一つですから、その記憶は記憶として持っていて当然です。それをベースとして、すべてのものごとを見てしまう癖を和らげることが重要です。ある一面においてはまっさらな心の状態で、現在の状況や新しい出来事を体験できるようになることを目指す、これがマインドフルネスです。

よくマインドフルネスのやり方として、「呼吸に意識を向ける」とか、「歩いているとき、地面を踏みしめている足の裏の感覚を味わう」という方法が紹介されていますが、これはつまり外から入ってくるすべての感覚入力、つまり刺激を丁寧に受け止めるということです。さきほども言ったように、現代生活は情報がたくさん入ってくるせいで脳が疲れてしまう。これはすべての情報を雑に受け取っている状態です。雑に受け取っているから、いくつもの情報が同時に入ってきてしまうのです。たとえばSNSを眺めていると、動画がどんどん流れてきて、すぐに次の動画が出てきます。これぞまさに雑な情報入力の典型です。

それよりもっと丁寧に、一つの情報を受け止めるようにしましょう。「忙しいのに、そんなことはしていられない」と思うかもしれませんが、ゆっくり時間をかけて効率を落とせと言っているわけではなく、早く丁寧に行うことは十分可能です。

上機嫌な人がストレスを上手に乗り越えている、というのは、刺激を丁寧に受け取るからです。目に映るものすべてが新しい出来事に見えてきて、ワクワク感が生まれてくるはずです。

こんなふうに毎日いきいきとして元気に満ち溢れた在り方を、「活溌溌地かっぱつぱっち」といいます。要は釣り上げたばかりの魚がピチピチと跳ねている状態。そうなれば毎日上機嫌で生きていけるのではないでしょうか。

【図表】「負の感情」から身を守り 「上機嫌」につながる4つの言葉

※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年7月31日号)の一部を再編集したものです。

(構成=長山清子)
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