収入で感じられる幸福度には限界がある?
普段の生活でふと感じたり、何気なく言葉を口にしたりする「幸せ」。そもそも幸せとは何でしょうか。それは一つの実体があるものではなく、さまざまな満足の集合体だと考えられています。健康への満足、人間関係への満足、仕事への満足……そうした個別の満足が積み重なり、重なり合って「幸せ」という総体ができています。ですから、幸せを一つの指標だけで測ろうとすると、どうしても実感とずれてしまいます。
武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授。1962年山口県生まれ。84年東京工業大学(現東京科学大学)卒業、86年同大学修士課程修了。キヤノン、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、慶應義塾大学教授、ハーバード大学客員教授などを経て2024年4月より現職。慶應義塾大学名誉教授。博士(工学)。近著に『心を持つAIは作れるのか? いや、そもそも人に心はあるのか?』など、著書多数。
「感情的な満足」は、日々の心の動きとして短期的に表れます。私が研究する幸福学では、これを「楽しい」「うれしい」「快活」といったポジティブ感情と、「怒り」「悲しみ」「苛立ち」といったネガティブ感情の2つに分けて捉えます。「機嫌がいい」というのは、このポジティブ感情が大きく、ネガティブ感情が小さい状態といえます。
幸福学には、こうしたポジティブ感情・ネガティブ感情を測る短期的な尺度と、「私の生活は幸せだ」という人生満足度を測る、より長期的な尺度があります。短期的な幸せと長期的な幸せは完全にイコールではありませんが、無関係ではありません。ポジティブ感情が大きい人は人生満足度も高いことがわかっていますから、日々機嫌がいい人は幸せになる可能性が高いといえます。
年収が高いほど幸福度は高くなります。ただし、効果には限りがあります。グラフの横軸に年収、縦軸に幸福度を取ると、最初はぐんぐん上がりますが、年収が一定額を超えるとカーブは緩やかになり、上昇のペースは鈍くなります(図表1参照)。経済学における「限界効用逓減の法則」(得るものが増えるほど、その満足度の伸びが小さくなる)と同じ現象です。
ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カーネマンの研究では、「幸福度は年収7万5000ドルで頭打ちになる」とされていました。しかし、その後、心理学者であるマシュー・キリングスワースの研究により、そこを超えても幸福度は上昇を続けることがわかりました。それでも、上昇のペースは年収が増えるごとに小さくなっていく点は変わりません(図表2参照)。年収1億円の人と10億円の人を比べても、幸福度の差はわずかです。年収1500万円くらいを超えると、上昇はかなり微々たるものと考えていいでしょう。
一方で、裕福でありながら幸福度が低い人もいます。それには4つの理由が考えられます。まず、「資産が減ることへの不安」です。リーマンショックで150億円の資産が減って、まだ50億円も残っているのに「自分は日本で一番不幸だ」と悲嘆する人もいました。持っているものが減る苦しみは、額が大きいほど強くなる場合もあるようです。
2つ目は、「資産の形成と消費のアンバランス」です。プロスポーツ選手が引退後に自己破産したり、宝くじの高額当せん者が当せん後に生活を乱したりする例が少なくないのは、手にした大金を使いこなす力が伴っていないからだといえます。
3つ目の理由として、「人間関係が希薄化し、人を信じられなくなること」が挙げられます。大金を持つと、お金目当てに近づいてくる人や、本心を隠してへつらう人も増えていきます。誰を信じればよいのかわからなくなり、家族すら信じられなくなったという富裕層もいるでしょう。
そして最後が、「優越感を幸福と履き違えてしまう」です。優越感とは、人と比べて自分のほうが上だと感じる気持ちのことで、幸福そのものとは別の感情です。比較には終わりがなく、上には上がいるため、世界一にならない限りきりがありません。たとえ自分が10億円を持っていたとしても、「あいつは20億円を持っている」と、自分より上の人と比較してしまえば、優越感の裏側にある劣等感に苛まれてしまいます。
所得、出世、結婚など、それだけでは幸福に直結しない特定の価値を手に入れれば幸せになれると思い込む心理のことを、カーネマンは「フォーカシング・イリュージョン(焦点化の幻想)」と名づけました。人からうらやましがられたいという欲求が強い人ほど、この幻想に陥りやすい傾向があります。物や地位を持つ人こそ幸せだという、資本主義社会特有の価値観の影響も大きいと考えられます。「○○があれば幸せなのに」という考え方は、裏を返せば「○○がない今の自分は幸せではない」と思い込むことであり、結局は自分自身を不幸にしてしまいます。フォーカシング・イリュージョンに気づき、それを手放すことができれば、人はずっと幸せを感じやすくなるはずです。2012年に16カ国で行われた調査によれば、「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と考える日本人は65%にのぼりました。これもフォーカシング・イリュージョンの一例といえるでしょう。米国ではこの割合は16%にとどまります。
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