ツイッターを見ていると自分が「普通」だと勘違いしてくる

なぜ、誰かに意見を述べるとき、批判をするとき、普通や常識的という言葉を使うのだろうか。ただ、自分の考えや言いたいことを相手に伝えればいいではないか。「自分の意見に自信がないのだろう。可哀想な人だな」と分析していたけれど、そうではなかった。

僕がザ・ストーン・ローゼズを聴いていた時代と今とで大きく変わったのはインターネットの有無だ。今は、会ったこともない人たちの考えや意見に触れられるようになった。同時に自分の考えや意見をインターネットにさらせば、世界中の知らない人に見られる。

かつては教室で麻雀をやっていた奴ら数名だけだった声。今はそれが何千、何万という数になりうるのだ。それほど多くの声が自分の味方だったら、誰でも心強いにちがいない。

ツイッターを眺めているといろいろな「普通」や「常識的」が流れてくる。もしそれらと自分の考えが近かったら、自分自身が「普通」で「常識的」だと勘違いしてしまうだろう。だから異なる意見や考えと対峙すると、大軍を召喚するように、普通、常識的という言葉を出して、相手を圧倒しようとする。

異なる考えを尊重するために余計なファクターを外す

普通で常識的だから何だというのだろう。多数派なだけだ。それが異なる意見や考えを否定する根拠にはならない。もし、普通で常識的であることが偉いとでも思っているのなら、父親のキンタマに戻って人生をやり直したほうがよろしい。

僕は自分を平凡な人間だと分析している。優れた資質も誇れるような実績もない。だからどちらかと言うと、普通や常識的とされる考え方に親近感を覚える。

油断すると、突飛な意見を述べる経営者や芸能人に対して「そうじゃないだろう。常識的に考えて普通はさ……」と普通、常識的を味方につけ、虎の威を借りる狐のように自分の意見を述べてしまいそうになるところをぐっと抑えるようにしている。

自分の意見や考え方が絶対に正しいとは思わない。自分とは異なる意見や考えを「そんな考え方もあるのか」と尊重できたらいい。そのためには普通、常識的という余計なファクターを外して、意見や考えそのものを見なければならない。