「終わりの見えない状況」は疲れるだけ

何かを「諦める」ことは、一概にネガティブなことではない。というのも「終わりが見えない」という状況は、人生において多大なストレスをもたらすからだ。

たとえば「定年」は、社会人生活におけるひとつの区切りとして存在し、ひとまずの「終わり」を示してくれるものだ。だからこそ人は「60歳までは、なんとか働こう」と考えることができるのだと、私は思う。一方、いま私が携わっているフリーランスのウェブメディア編集という仕事には終わりが見えない。

紙メディアの社員編集者、それも新卒で出版社に入ったような人材であれば、先はイメージしやすい。あくまで一例だが、若手のうちに激務の週刊誌編集に従事した後、いくつかの雑誌で編集を経験し、最初に配属された週刊誌にデスクや副編集長といったマネージャー職として復帰する、といったキャリアが考えられる。そこからは編集長になれるかどうかのレースが始まる。

そのレースに敗れたら、次は書籍編集の道に進み、ヒット作を手がけることがひとつの目標となるだろう。もちろんそこでも、編集長レースは存在する。さらにその先には、編集部門を統括する部長職、局長職を目指すレースもある。また、定年の5~10年前には「役員になれるかどうか」という岐路もやってくる。これが、会社員人生の「終わり」を見通すにあたってのメルクマールとなる。役員になれないことが見えてきた場合は、早期退職の道を選ぶこともあるだろう。

「筋肉が減り、脂肪が増える」という恐怖

このように、ある程度「終わり」が見えていると人生設計は組み立てやすい。ただ、ウェブメディアの場合、どうにも終わりが見えないので、最近はこの仕事にかかわることが正直つらくなってきた。

毎日、記事の拡散とページビューの数字に追われ、刹那的に消費されるだけの記事を出し続ける日々。ときおり「あの記事、読みましたよ」などと言ってもらえたりするのは編集者・著者冥利に尽きるが、そうした喜びもその瞬間だけのことであり、再び終わりのない“ウェブ編集小作農”としての活動がいつまでも続いていく。

同じように筋トレにも「終わり」がない。なにしろ70代になっても、鍛えれば筋肉は成長するのだから。日常的に筋トレに取り組んでいる人にとっては「あるある」だろうが、数日ほど筋トレから離れただけでも、胸の筋肉が薄くなり、肩の隆起も小さくなったと感じてしまう。そして「やばい、早く筋トレをやらなくちゃ」などと焦りを覚えるものだ。

そんな調子なので、長期出張や旅行に出向くときには、ホテルにジムがあるかどうかが宿選びの重要な判断材料となってくる。ジムがない場合は、部屋で腹筋や腕立て伏せをやるなどして、とりあえずは心の安定を図ろうとする。