前回(http://president.jp/articles/-/20204)に続き、「ゆるスポーツ」を発案した澤田智洋氏との対談。「負けても楽しいプロセスが大切」と意気投合した若新氏と澤田氏が考える「ゆるさ」の価値や可能性とは?
白黒つけない「中間」の価値
【若新雄純】僕がスポーツについてよく思うことは、たとえばオリンピックの競技にはヨーロッパ発祥のものがたくさんあるわけなんだけど、元をたどれば貴族が余暇時間を埋めるために始めた「遊び」だったってことです。上流階級で資産家でもある貴族が、労働階級を働かせている間、体動かしたりして遊ぼうぜ、といって生まれたのがテニスやサッカー、乗馬だったわけです。音楽や演劇の文化などもそう。貴族社会を肯定しているわけじゃないけど、遊ぶ余地があったから、スポーツなどの新しい文化が発明された。これってすごく大事なことだと思うんです。
それが、スポーツの多くは勝敗を争う「競技」として成熟しすぎて、遊べる余地がなくなった。僕はサッカーのルールをだいたい知ってて、ボールを足で蹴ることはできるけど、それを「サッカーができる」とは言わない。オリンピックのような競技大会が盛り上がれば盛り上がるほど、中途半端な状態では楽しめないのが残念です。
その点、澤田さんの「ゆるスポーツ」は、得意な人も下手くそな人も一緒にプレイできて、勝っても負けてもそのプロセスを楽しめる。「遊び」としての原点回帰ですね。
【澤田智洋】「ゆるスポーツ」のことを海外の人に話すと、とても興味を示します。「ゆる」は英語に直訳できないので、「ゆる」って何だ?と。あえて英語にすると、openでrelax、easy、pop、loose、crazy……ということになるんですが。この言葉の持つ脱力感というか、変に思考や筋肉が硬直していない懐の深さがすごくいいなと思っています。
【若新】「ゆるい」って何かと考えてみると、堅いものから柔らかいものまで、さまざまな状態を共存させることができるのが本当の「ゆるさ」だと思います。だけど、僕たちは極端で、「これしかダメ」と考えがち。どんな分野でも、徹底的に鍛え抜かれた圧倒的な実力がある人しか、プレイヤーとして認められない変な圧力を感じます。
なんでもかんでも白黒はっきりつけず、もっと「中間」のようなものがあるといいですよね。小学生や中学生がスポーツするときでも、周りについていけないからやめるんじゃなくて、ついていけない人は、ついていけるそれなりのレベルで楽しめる選択肢があるといい。
【澤田】まったく同意見です。白か黒かの二元化で考える傾向が強いのは、きっとそれが楽だからでしょうね。その意味で、「ずるいな」という気がします(笑)。僕らがやろうとしている「ゆるい」取り組みは、決して楽ではありません。みんなが白か黒かに安住しているところに、「いや、紫だ」と新たに選択肢をつくるわけですから。「ゆるい」という概念とともに、白黒以外の選択肢が広まり、「それもありだよね」といろんなことが許される社会が理想ですね。