幸福とは、自己肯定
2016年度版の47都道府県幸福度ランキングで、僕の故郷である福井県がまた総合1位になりました(http://www.pref.fukui.jp/doc/furusato/ranking.html)。「健康」「文化」「仕事」「生活」「教育」の5分野で構成されているようですが、福井県は別に給料の高い仕事がたくさんあるわけでもないし、東大などへの進学者数も特に多くありませんが、「仕事」と「教育」の分野でも1位でした。つまり、底上げができていたり、安定感のようなものがあったりするんだと思います。
僕も福井で生まれ育ったので、その実態をよく聞かれます。最近では毎月福井に帰っていることもあるし、自分なりの勝手な視点で考えてみることにしました。
福井には、空路も新幹線もありません。日本海側に位置して、みごとなまでに山に囲まれた閉鎖的な地域です。それでも、今ではテレビやインターネットなんかは都会と変わらない条件で整っているし、県庁所在地やその周辺であれば日常的なものはなんでも手に入ります。つまり、福井はある程度「自己完結できる環境」だと言えます。
それに関連してもうひとつ、東京と福井を行き来して感じたことは、あまり他と「比較」しなくてすむ環境だということです。なんというか、必要以上に他の県よりも上に行こうというような意識がありません。幸福度1位も、そう「だった」から掲げている、というような感じです。
面白いことに、福井の人の多くには「自分たちはすごく田舎に住んでるけど、別に悪くないじゃん」という開き直りに似た「自己肯定の感覚」があります。どんな指標においても、他と比べだしたら満足度にはキリがないと思います。今ある環境やありのままの日常を受けいれ、その中から生きがいややりがい、充実感を見出すことができる。それが、指標以上に県民一人ひとりの幸福度に反映されているような気がします。
そもそも、「幸福」というのは主観的な感覚であり、「あなたは幸福だよ」と言われても、「自分は不幸だ」と感じていたら、その人は不幸であるということになります。今の日本社会を見渡すと、所得やポジション・ステータスの高い人たちが、必ずしも「幸福」を感じているとはかぎりません。絶えず比較と競争のなかで戦っていれば、所得や社会的ステータスは自分の価値を相対的に決める「条件」となり、それに縛られます。上には上がいて、「もっとレベルアップしなきゃ」とか「なんで自分はこんなもんなんだ」という比較意識から解放されないと、いつまでたっても「今の自分のこと」を肯定できなくなってしまうのです。