動機や目的に踏み込めば、相手の本性が見える

孔子とか『論語』と聞くと、偉い人から堅苦しいお説教でも聞かされるのではないか、と思っている人が多いのではないか。そういう気持もわからないではない。じつは私も若いころ、そんな先入観があって、なんとなく敬して遠ざかっていた。

ところが大学に入って中国文学科を選択したことから、『論語』くらいは読んでおかなければなるまいと、半ば義務感にかられて読んでみた。読んでわかったのは、孔子は偉い人にはちがいないが、生まれも育ちもけっして恵まれたものではなく、その後の人生も苦労の連続であったということだ。いわばこの人は人生の苦労人なのである。

『ビジネスに効く教養としての中国古典』(守屋洋著・プレジデント社)

孔子は下積みの苦労をたっぷりなめることによって、人間を見る目も磨いていった。そういう意味では、希に見る人間通と言ってよいかもしれない。

「その以(も)ってする所を視(み)、その由(よ)る所を視、その安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞカク(かく)さんやや、人焉んぞカクさんや」(為政篇)(カク=广に叟)

孔子の人間観察法である。人を見るのに、現在の行動を観察するばかりでなく、その動機は何か、また、目的は何か、そこまで突っ込んで観察する。そうすれば、どんな相手でも自分の本性を隠しきれなくなるというのだ。

「君子に侍(じ)するに三愆(さんけん)あり。言(げん)未(いま)だこれに及ばずして言う、これを躁(そう)と謂(い)う。言これに及びて言わざる、これを隠(いん)と謂う。未だ顔色(がんしょく)を見ずして言う、これを瞽(こ)と謂う」(季(り)氏(し)篇)

目上の者に仕える場合、してはならないことが三つある。それは他でもない、軽はずみ、隠し立て、目が見えないことである。軽はずみとは、相手がまだ話題にしないことまで先取りして言うこと。隠し立てとは、意見を求められても答えようとしないこと。目が見えないとは、相手の顔色も読まないでまくしたてること。

『論語』にはこういうアドバイスが随所にちりばめられている。人間学の教科書として、まさに打って付けだと言ってよい。