カミは人間が生み出した「生存のための知恵」
カミとして祀るためには、決められた日時に、専門の神役が専用の衣装を着て儀礼を行います。
たくさんの供え物をし、精霊をカミとして讃える神歌を歌いますが、この歌の中で精霊たちの名前をどんどん歌い上げていきます。この営みを、宮古島の言葉で「カンナーギ」、すなわち「神名挙げ」といいます。こうすることで、精霊の名前はカミの名前となります。このことは、精霊がカミとして祀り上げられたことを意味します。
こうした営みは、カオス(混沌)であり恐怖の対象であった自然に対し、カミとしてはっきりと名前をつけ、分類したということにほかなりません。このように、自然という圧倒的なカオスを秩序立てることが「ノモス化」です(ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋―神聖世界の社会学』薗田稔訳 筑摩書房)。
また、こうしたノモス化以前の、カオスがもたらす恐怖とは、圧倒的な大自然の猛威のような、人間の知性や論理が一切通用しない「見えない闇」に対して私たちが本能的に抱いてきた根源的な「怖れ」としての「原初的恐怖」ということができるでしょう。
ところで、ここで注意しておきたいのですが、この「原初的恐怖の源泉としてのカオス」を「ノモス化」するという行為自体は、自然に名前を与えて人間に理解可能な枠組みに変換しているという意味で、一種の「人間中心的な営み」に違いありません。
しかし、これは決して自然を支配したり、見下したりする「人間優位の営み」ではありませんでした。大自然の圧倒的な脅威の前に身を震わせながら、人間がなんとか生き延びるために紡ぎ出した「生存のための知恵」なのです。
自然への「上から目線」からカミは生まれない
そこには自然への絶対的な畏怖がしっかりと存在しています。つまり、精霊やカミを設定するという意味でのノモス化においては、人間の側に自然をジャッジするような精神的ゆとりはなく、そこには「上から目線」など一滴も混ざってはいないのです。
カオスとしての自然とは対話不能でも、ノモス化されたカミとなら、なんとか対話が可能になると人びとは考えました。そこで、お供え物を用意して一定の手順を踏む、つまり儀礼を行う中でカミの言葉を聞き、さらにはこちらからのお願いも伝えるようになりました。
漠然とした自然そのものと対話することは困難ですが、カミとして祀り上げることで、こちらの願いを聞いてもらえる、さらには自分たちを守ってくれると期待するようにもなったのです。このように、人びとは自然をカミに変換することで、自然との対話をなんとか実現してきました。
以上をまとめると、「自然→霊力→霊魂→精霊→カミ」という流れを指摘できます。そして、この5段階の途中を省略して表現すれば、「自然とはカミである」と言い換えることができます。畏怖の対象である自然をカミとして祀り上げ、ノモス化(秩序化)することこそが、この信仰の核心なのです。
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