「商店街は悲哀をかこっている」
先ほど触れたとおり、高砂市は複数の町村が合併して誕生した。そのため中心となる商業集積や交通ターミナルがなく、買い物客が市外へ流れてしまっていた。1969(昭和44)年に行われた「高砂市高砂町商店街診断」によれば、高砂市民の消費購買力の23%~25%は市外へ流出していたという。主な流出先は、隣接する姫路市であった。
昭和40年代には、高砂市の商店街について次のような記述が確認できる。
「商店街も神戸、姫路にお客をとられ、中間消費地帯の悲哀をかこっている。」「昔のような“飲み屋街”の復活は望めそうにない。」〔『サンデー毎日 48(臨時増刊号)』1969年8月〕
「商店街はさびれはじめている。」(『月刊世界政経』1975年4月)
サンモール高砂のオープン前からすでに、高砂市の商店街には陰りが見え始めていた。
「地元の希望」を背負っていた
そんな高砂の街に中心を作るべく、高砂市は1968(昭和43)年に「高砂地区再開発事業計画」を作成した。しかし市の計画は住民の反対運動により挫折。その構想を三菱倉庫が引き継ぎ、三菱製紙高砂工場のグラウンド跡地などを取得して開発されたのが、サンモール高砂である。三菱倉庫がショッピングモールを開発するのは初めてのことだった。
1976(昭和51)年3月に東館・西館が開業し、核テナントの西友ストアーと専門店54店舗が出店した。1978(昭和53)年に南館を増築し、三菱倉庫グループのサンモールスイミングクラブなどが新たに開設されている。商店街が衰退しつつある高砂においても、大型店が成立する商圏を見込んで開発したのだろう。
1970年代後半~1980年代にかけて複数の業界誌において、サンモール高砂などのモールが誕生したことで、姫路市の集客力が低下していると指摘されている。裏を返せば、高砂市はサンモール高砂によって地元買い物客の流出を抑制できたと言える。
だが、サンモール高砂は地元の商店街衰退に拍車をかけた。高砂市の小売業商店数は1985(昭和60)年の1296をピークに減少に転じたが、売り場面積は広がり続け、ピークを迎えたのは2007(平成19)年だ。年間販売額のピークは1999(平成11)年、従業者数のピークは2002(平成14)年である。売り場面積が狭く従業者も少ない小さな商店は淘汰され、大型店が取って代わったのだ。(「高砂市統計書」令和7年版)
1997(平成9)年の日本商工会議所の調査によると、高砂市の大型店の店舗面積シェアは73.3%で、全国トップ10にランクインしていた。
高砂市は、大型店の立地によって個人商店が次々と姿を消した最たる地域といえる。
