エンタメ化や政治の介入を許したスポーツ
32年ぶりに日本開催となった愛知・名古屋アジア大会が閉幕した。目も当てられない運営面での不祥事に目を瞑れば、アスリートたちが日々の練習の成果を真剣にぶつけ合うさまは見ていて気持ちがよく、改めてスポーツの良さを感じた期間だった。
だが、今年はそんなスポーツの醍醐味が相次いで毀損された年でもあった。
6~7月にかけて行われたFIFAワールドカップでは、開催国であるアメリカのトランプ大統領の圧力があったのか、レッドカードを受けて本来出場が認められない選手が特例で次の試合に出場し、また決勝戦のハーフタイムがショーを挟んだことで規定の15分を大幅に超える27分間も取られた。
時を遡って5月には、禁止薬物を実質的に解禁した「エンハンスト・ゲームズ」が開催されるなど、スポーツは政治の介入を許し、商業化およびエンタメ化の波に流され、健全さや健康への配慮を手放してしまった。
タガが外れた。そう言っていい。
スポーツのフェアネスは「骨抜き」と化した
いまさらなにをと思う向きもあろう。今日のスポーツの発展は政治や経済との結託なしに考えることはできないし、ドーピングも水面下では行われている。具に現実をみれば、スポーツの根幹にあるフェアネスという理念は骨抜きになっている。
ただそうであっても、これまで表向きには理念を体現すべく努めてきた。フェアネスという理念がフィクションだとわかりながらも、その実現に向けて努力を続けてきたわけである。この「やせ我慢」があったからこそ、スポーツは文化たりえた。それを放棄すれば、スポーツはもはや文化とは呼べない。
誤解を恐れずに言えば、完全なるフェアネスは絵空事に過ぎない。達成に向けてどれだけ努力したところで、不平等は生じるものだ。そのときどきの状況や社会情勢にも配慮しながら、絶えず微調整することによりかろうじて成立するのがフェアネスである。
スポーツにおけるフェアネスの象徴として、ルールに基づく判定がある。昨今ではその判定にビデオ映像が使われるようになった。わかりやすいという声もあれば、流れが寸断されるから受け入れ難いという声もある。理想に過ぎないフェアネスは、いかにして実現すればよいのか。それを考えるために、本稿では「ビデオ判定」を取り上げたい。

