スポーツと「誤審」は切っても切り離せない
相撲がスポーツかどうかはさておき、日本スポーツ界で最初に「ビデオ判定」を導入したのは大相撲である。1969(昭和44)年の夏場所で初めて実施され、そこからやや時を経た21世紀の始めに各種目へと広がった。いまや当たり前となった「ビデオ判定」は、どの種目においても大きな変容をもたらした。
「ビデオ判定」の目的は誤審をなくすことである。
スポーツ史を振り返れば、誤審は枚挙に暇がない。
たとえば柔道では、2000年シドニー五輪の男子100kg超級の決勝で、篠原信一選手の内股すかしがある。本来なら篠原選手の一本勝ちだったはずが、相手選手の有効と判定された。サッカーでは、2002年FIFAワールドカップ日韓大会において、開催国である韓国と、イタリアおよびスペインとの試合での判定が物議を醸した。
また野球では、2006年ワールドベースボールクラシックの日本対アメリカの試合で、日本の得点が取り消された判定が議論を呼んだ。判定を下した球審のボブ・デービッドソン氏に容赦のない批判が浴びせられた事実を、多くのファンは忘れていない。
さらに時代を遡れば、1986年FIFAワールドカップメキシコ大会で、ディエゴ・マラドーナ選手が手を使ってゴールを決めた「神の手ゴール」がある。また私が専門とするラグビーでは、1985年大学選手権決勝の慶應大vs同志社大の試合で、慶応大のトライが取り消された「幻のスローフォワード」がある。いずれもオールドファンの間では語り草となっている。
姑息な「チャレンジ」が観客を興醒めさせる
あらためていうまでもなく、誤審はなくすべきである。当該選手にとってはたまったものじゃないし、ファンも贔屓チームの不利益を望まない。先に述べた通り、フェアネスの確保はスポーツが文化たりうるための必要条件である。そのために「ビデオ判定」の導入に踏み切ったことに異論はない。
ただ、昨今のスポーツを観ていると、いささか行き過ぎていると思われる。
野球やバレーボール、テニスなどでは、アウトかセーフか、インかアウトかの際どい場面において、判定に不服だった場合に「ビデオ判定」を要求できる。NPB(日本野球機構)では「リクエスト制度」、バレーボールとテニスでは「チャレンジシステム」と呼ぶ。判定が覆るケースもままにあり、フェアネスの確保に一役買っているのは間違いない。
ちなみに異議申し立てをする回数には制限があり、NPBは1試合に2回、バレーボールでは1セットに2回、テニスは1セット3回と決められている。いずれの競技でもリクエストおよびチャレンジが成功すれば、つまり判定が覆ればその回数は減らない。むやみやたらに判定の見直しを要求できないよう、歯止めをかけているわけだ。
試合を観ていると、この制度を逆手にとり、誤審の疑いが乏しいにもかかわらず権利が残っているからと、リクエストおよびチャレンジするシーンが散見される。どう見ても判定が正しいのに「あわよくば」と権利を行使するその様からは、ある種の姑息さが感じられ、いささか興醒めする。誤審を減らすという本来の目的とは違ったかたちでのこうした運用は、スポーツパーソンシップとは相容れないし、なによりレフリーや審判の存在が蔑ろにされている。
ここに私は引っ掛かる。
