ビデオ判定への偏重は審判の人間性の否定だ

どれだけテクノロジーが進化しても、スポーツから誤審はなくならないだろう。なぜなら生身の身体が躍動するのがスポーツだからである。とくに、いくつもの身体が複雑に絡み合いながらパフォーマンスを発揮する集団競技では、誤審をゼロにはできない。複数の身体が錯綜する場面を的確に捉えて判定を下すことは原理的に不可能なのに、まるで重箱の隅をつつくように後付けで映像を確認する作業は不毛でしかない。

角を矯めて牛を殺す。そうならないために、ここは立ち止まって考えるべきだ。

事の本質はスポーツの価値を守ることにある。そのために最新のテクノロジーを最大限に活用することは最適な選択肢ではない。どの程度まで活用するのか、その節度をいかに保つかが解決すべき課題だ。これはつまり、スポーツを哲学することに他ならない。

審判やレフリーもまた、スポーツを演じるアクターの一人である。生身の人間である以上、死角は生じるし、試合の流れに引っ張られたり、感情が波打つことだってある。

彼、彼女たちが瞬時の判断で下した判定が軽くなり、映像という誰の目にも確認できる証拠に重きを置くのは、いわば人間性の否定である。彼、彼女たちを尊重するとともに「ビデオ判定」を補助的なものとし、その活用を限定する。たとえ映像を見返して誤審だったとしても、それも含んでスポーツとする。

VARシステム画面
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先に述べた「神の手ゴール」や「幻のスローフォワード」が、いまもなお語り継がれる物語になっていることを思えば、誤審はスポーツの楽しみを削ぐのではなくむしろ豊かにするといえるだろう。

ビデオ判定は「人間らしさとは何か」を問いかけている

白黒はっきりさせること、効率的でノーミスであることを至上命題とするその姿勢は、スポーツのビデオ判定のみならず、現代のAIシフトとも完全に地続きである。効率化を極限まで突き詰めた先にあるのは、人間の「余白」を許さない息苦しい世界だ。

このテクノロジーへの盲信はスポーツだけにとどまらず深刻な影を落としている。

米AI企業「アンソロピック」のジェイコブ・コクソン氏は、今後10年以内にAIが人類を滅亡させる確率が10%以上あると警告した。社会を席巻しつつあるAIに歯止めをかける必要性が示唆されるいま、最新テクノロジーとの付き合い方を腰を据えて考えなければならない。つまり人間らしさとはなにかをあらためて問わなければならない時代に、私たちは生きている。

この大きな問いと向き合うために必要な思考のフレームを、「ビデオ判定」の見直しは提供する。