“銀座商店街”の店舗も減少
商圏の縮小を表すように、サンモール高砂周辺の商店街も苦戦している様子がうかがえる。
高砂駅からサンモール高砂を通り抜けた先に、高砂センター街と書かれた商店街がある。ここは居酒屋が営業している程度で、ほとんどがシャッターを下ろしている。
付近には高砂商店街と高砂銀座商店街もあるが、やはりシャッターが目立つ。売物件やテナント募集の貼り紙も目に入る。筆者は2025年末の休日と2026年の平日に訪問したが、いずれも人通りは非常に少なかった。
高砂銀座商店街に関しては2016(平成28)年時点で、「多いときは26店あったが今は8店になり、アーケードの人通りはまばらだ」と報じられている。(朝日新聞 2016年4月2日付)
また「高砂市統計書」によると、高砂市の小売業商店数は1962(昭和37)年の730から右肩上がりだったが、1985(昭和60)年の1296をピークに減少に転じ、2021(令和3)年には447にまで激減している。(「高砂市統計書」令和7年版)
やはりサンモール高砂だけでなく、高砂駅周辺の商圏が縮小したと言えよう。
明治維新で衰退、工業で復権した街
では、高砂駅周辺の商圏はどのように成立し、そして縮小してしまったのだろうか。
高砂市は兵庫県の播磨沿岸地域、加古川市と姫路市の中間に位置している。1954(昭和29)年に4町村が合併して誕生し、その後さらに周辺の3町村が合併した。サンモール高砂は旧高砂町に立地している。
加古川の河口に位置する高砂町は、物資の集散地や貢米の集荷によって栄えていた。ところが明治維新によって貢米が廃止され、港の存在意義が失われてしまう。さらに山陽鉄道(現・JR山陽本線)が1888(明治21)年に開通し、舟運が衰えていく。物資の集散地は駅が開設された加古川に移り、高砂は衰退していった。
高砂の復権をかけたのが、工業化である。1901(明治34)年の三菱製紙の移転、1907(明治40)年の鐘淵紡績工場の開設を契機とし、高砂は工業都市へと姿を変え始めた。
1923(大正12)年には神戸姫路電気鉄道(現・山陽電気鉄道)が開通し、高砂町駅(現・高砂駅)が開設された。そして1964(昭和39)年には工業整備特別地域に指定され、高砂町は工業都市として発展した。また、工場労働者の需要により飲食店を中心に商店街が栄えた。
現在でも臨海部を中心に工場が建ち並び、街中には工場の排水路があり、歩いていると煙突ともくもくとした煙が見えてくる……高砂市はそんな街である。



