大野 均(東芝ラグビー部ブレイブルーパス)

おおの・ひとし●1978年、福島県生まれ。清陵情報高校を経て、97年日本大学工学部に進学。大学に入ってからラグビーを始める。大学4年のときに、国体の福島選抜に入る。2001年大学を卒業後、東芝に入社。国際試合は2004年の韓国戦が初キャップ。以来、07年と11年のワールドカップを経験。ポジションはロック。ニックネームは「キン」。著書に『ラグビーに生きる』がある。

ラグビーに生きる。

大好きなコトバだ。愛称『キンちゃん』こと、ロック大野均がこのコトバを使うと、妙に納得したくなる。

35歳。日本代表のキャップ(国別試合出場)数はFW史上最多の「77」を数え、2013年、トップリーグ(TL)の東芝の試合もフル出場した。まさに「鉄人」。

師走の某日。試合後、「元気ですね?」と声をかけると、「まだイケると思いますよ」と接触プレーで擦り切れた顔を和ませた。

「体力はまだ、ガタ落ちはしていません。エディーさん(ジョーンズ=日本代表ヘッドコーチ)がジャパンでやろうとしていることを常に試合で意識しています。例えば、当たる時の低さだったり、動き出しのはやさだったり……。まだ成長したいと思っています」

いつも全力投球。試合中、足がつっても、その足をひきずりながら走り続ける。密集には頭からガツンガツンと突っ込んでいく。ハートがあるのだろう、激しいプレーでチームを引っ張る。

192cm、105kg。タフである。みんなが疲れてくるラスト20分、大野の動きがガゼン、目立ってくる。

疲れないのか?

「そりゃ、人間だからしんどいですよ。でも僕がしんどい時は、相手もしんどいので。自分が動けば、もっとチームがラクになる。昔から、しんどい時に動かなくて負けたらホント悔しいだろうと思って、走っています」

ユニークな経歴である。福島県郡山市出身。高校時代までは野球に熱中し、日大工学部に進んでラグビー部に入った。全国的には弱小チームだった。でもひょんなことから、東芝ラグビー部のコーチを務めていた薫田真広さん(現・ラグビーW杯日本代表戦略室長)の目にとまり、いきなり日本のトップレベルの東芝に入ることになった。

東芝のトライアウト練習で肩を亜脱臼しながらも、弱音ひとつ吐かず、プレーを続けたのは有名な話だ。なぜ、タフなのか?

「頑丈なからだもありますが、この試合、勝ちたいと思うからです。試合が終わったあと、しんどかったから、ミスがあったから、と後悔しなくないんです」

W杯には、2007年大会、11年大会に出場した。11年の前回W杯では、日本の最終戦が終わった夜、ニュージーランドのネイピアの街の酒場で偶然一緒に飲んだことがある。その大会、日本は1分け3敗。大野はビールを片手にこう、漏らした。

「W杯にはオトコの生き様が出るのです。4年間、ふだんの練習だけじゃない。グラウンド外でも、どう自分を磨いているのかが、大事なんです」

モットーが『灰になっても、まだ燃える』。例え、燃え尽きても、まだ燃える。キンちゃんは走る。頭から相手FWにぶつかっていくのである。

(『ラグビー魂』編集部=写真)
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