突如切り出された電撃的な引退表明
「ここらが潮時やと思うてる。君、どない思う」
役員に対し、幸之助が突然の会長退任を切り出したのは、取締役会を2日後に控えた昭和48(1973)年7月のことだ。電撃的な引退表明だった。取締役会で、幸之助は次のようなスピーチを残している。
「ちょうど数えの80歳、そして松下電器創業55周年。区切りがいいと考えました。いまは自分の頭をなでてやりたい心境です」
会長から相談役となった幸之助は、それからも精力的に活動を続けた。85歳のときには私財を投げ打ち、松下政経塾を開塾。900名近い応募が殺到する中、23名が第1期生として入塾し、現在では200人以上の卒業生が政界や実業界の一線で活躍している。
ちなみに、幸之助は戦後まもなく幸福追求運動「PHP(ピース・アンド・ハピネス・スルー・プロスペリティー)」を開始するなど、思想家としての一面もあり、民間シンクタンク「PHP研究所」を設立し、PHP誌の創刊や講演活動を通じ、繁栄の理念を説き続けてきた。
決して合理性に優れた経営者ではなかった
そんな生涯現役だった幸之助が没したのは、平成元(1989)年のことだ。享年94歳だった。新聞は号外を飛ばし、急遽NHKは追悼番組を組んだ。社内から約5000人、社外からも約1万5000人もの参列者が集い、幸之助との永遠の別れを惜しんだ。
彼が人間同士の信頼関係を最も大事にしていたという証拠だと言えよう。松下幸之助の哲学に「水道哲学」というものがある。水道の水を通行人がいくら飲んでも咎められることがないのは、量が多く、あまりにも価格が安いからだ。そう気づいた幸之助は、昭和7(1932)年の第1回創業記念式で、テーブルを叩きながらこう演説した。
「松下の使命もここにある。水道の水のごとく、物資を豊富に、かつ廉価に生産提供しなければならない。その結果、貧乏を克服し、人々に幸福をもたらすことができる」
これほどまでの使命感を持ち、かつ情にもろい幸之助は、合理性や効率の面から考えると、極めて優れた経営者だとは言えないかもしれない。しかし、それでも幸之助は「人と人とのつながりを信じる」という人間としての王道を、ひたすら突き進んだ。彼が「経営の神様」として、後世にまで語り継がれているのは、それゆえではないだろうか。



