値引きさせたうえ、経営指導料を勝ち取る

「技術指導料7%はいかにも高い。技術指導料は払うが、経営は誰がやるのか。松下が経営するのだから、経営指導料をもらわねばならん」

全く前例のない「経営指導料」をフィリップス社は当然のように拒絶。

しかし、幸之助が一歩も譲らなかったため、交渉は暗礁に乗り上げた。一時は決裂寸前にまで陥った交渉だったが、「こんな強硬な主張は聞いたことがない」と音を上げたのはフィリップス社のほうだった。結局、松下が4.5%の技術指導料を支払い、フィリップス社が3%の経営指導料を支払うことでまとまった。

外国の企業に「経営の価値」を認めさせたこの交渉は、戦後日本の復興を強く望んだ幸之助にとって、自国の誇りを賭けた戦いでもあったのかもしれない。実は幸之助は、この前年にアメリカ視察を行っており、その豊かさに舌を巻いた。大国を肌で感じた彼は、日本もこうならなければならないと考えていたのだろう。

日本で初めて「週休2日制」を宣言

この視察からおよそ10年後、幸之助はアメリカ松下電器を設立している。さらに「アメリカと同じように週2日の休みが必要である」として、昭和35(1960)年1月の経営方針発表会では、5年後に労働を週5日制にすることを宣言した。日本では初めての試みである。

組合さえも戸惑わせた公約に対し、誰もが実現性に疑問を持ったが、約束通り実行された。ひとえに日本の国際競争力を高めたいとの思いからだった。戦後、幸之助は常に世界を見据えていたのである。

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写真=iStock.com/Yusuke Ide
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フィリップス社との提携を結んだ松下電器は、さらに著しい成長を遂げていく。昭和31(1956)年、幸之助は実に強気な「5カ年計画」を発表。販売高を年220億円から年800億円、従業員を1万1000人から1万8000人、資本金を30億円から100億円にするという大目標をぶち上げたのである。信じがたいことに、それは4年目でほぼ達成された。

そして、当初の予定だった5年後には、販売高はなんと年1000億円を超えていた。そんな松下の快進撃が停滞したのは、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年のことだ。白黒テレビや洗濯機などが大衆に行き渡ったため、家電製品の販売が伸び悩み、全国の販売店・代理店の多くが赤字経営に陥る事態へとなってしまったのである。