「生産も勤務も半分、だけど給与は全額」

思えば身内3人でスタートした会社がここまで成長したのも、情報の漏洩を恐れずに外部から人を雇い入れたからこそ、そして従業員を信頼する道を選んだからこそのことだ。非常に厳しい局面にあるとはいえ、会社側が簡単に従業員を裏切るわけにはいかない。

幸之助はそのように考えたのである。とはいうものの、理想論だけでは行き詰まった状況を打開することはできない。そこで幸之助は大胆な対策を打ち出した。

「首切りはない。生産は半分、勤務も半日。給与は全額払う。しかし、休日返上で在庫を売るんや。ここは凌ぐしかない」

生産を縮小したうえで、長いスパンで倉庫の在庫を売り切る。賃金の損害はかぶる覚悟をしたのだ。解雇におびえていた従業員たちはこれを聞いて大喜び。各々が風呂敷に商品を包んでは、休日を返上して街に飛び出していった。また、勤務は半日でよいとされていたにもかかわらず、従業員たちは自発的に終日在庫を売り歩いた。

社長の覚悟に応えなければならない――。

従業員たちもかつてない使命感を持って仕事に取り組んだのだろう。倉庫にあふれ出ていた在庫は、わずか2カ月で完売した。こうして、松下電器は誰ひとりとして従業員をリストラすることなく、未曾有の大恐慌を乗り越えたのだった。このエピソードは、幸之助の有名な経営伝説の一つとして語り草になっている。

舞い上がる一万円札
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世界の企業も音を上げた伝説の交渉

幸之助が残した伝説として、フィリップス社との強気な交渉も挙げぬわけにはいかないだろう。戦後、松下電器はGHQの占領政策によって、財閥指定など7つの制限にがんじがらめにされ、幸之助は一気に10億円もの負債を抱えた。

「物品税の滞納王」と報道され、あれだけ拒んでいた人員整理にもついに手をつけざるを得なかった。だが、昭和25(1950)年に各種制限が解かれると、5年後には売り上げが220億円まで持ち直し、従業員数も1万3000人に増加した。

会社に復興のきざしが見えてきたころ、幸之助が行ったのがオランダのフィリップス社との技術提携である。かねてより欧米の技術を導入する必要性を感じていた幸之助であったが、なんと彼は、フィリップス社に突きつけられた7%という技術指導料に噛みつき、さらにとんでもない提案で切り返した。