今国会での皇室典範改正審議を機に、天皇制をめぐる多角的な論議が続いている。明治大学名誉教授で法学者の瀬木比呂志さんは「日本の天皇・皇族の基本的人権や個人としての生き方、人間の尊厳が真に尊重されるようになれば、日本人全体のあり方も変わっていく」という――。

※本稿は、9月発売予定の瀬木比呂志『法律家が見た日本社会の病理「空気」を打ち破る個と論理の構築へ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

夕暮れ時に水に映る東京御宮の二十橋の眺め
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今なお行われない天皇制の開かれた論議

本稿では、現在の天皇制について考えてみたい。なお、以下の議論は制度論であって、個々の天皇の人格や性格とは関係がない(私も、平成以降の天皇についていえば、民主主義国家の天皇にふさわしい教育を受けてこられた人々と考えているが、そのことと制度論とはまた別である)。

まず、天皇制に関する開かれた報道や議論は、今でも十分に行われてはいない。私自身、記者たちから、「記者にとってのタブーの一つは、今も昔も天皇制ですね」との言葉を聞いたことがある。

たとえば、天皇制もまた一つの制度である以上、国家の制度全般を論じる場合の一般論をあてはめるなら、「国民の総意に基づくべきものであり、改革はもちろん、状況が変わってゆけば廃止もありうる」ということになる。だが、おそらく、右派の人々は、そのような前提を認めること自体に強い反発、アレルギー反応を示すのではないだろうか。

しかし、近代の制度であることの帰結は右のとおりなのであり、そのような前提を認めたくないという意識の背後には、戦前の天皇制イメージ、イデオロギーの残滓ざんしがあるのではないだろうか。

ちなみに、読者に保守派が多いこともあって徐々にその傾向を強めていった山本七平も、この点については、より強く「天皇制を含め、どんな制度や体制もいつかは終わる」旨を明確に述べている(『日本人の人生観』〔講談社学術文庫〕)。天皇制の問題は、クリスチャンである山本にとって、最も重要な、避けては通れないものの一つであった。

戦後の天皇は「人間」になったといえるのか

だが、本稿では、天皇制の未来に関する右のような議論はとりあえずおいて、現時点におけるより現実的な問題、すなわち、「戦後の天皇は本当に『人間』になったといえるのか?」という問題について考えてみたい。

たとえば、ある国家の民事裁判権は、原則として、その主権の及ぶ範囲にいる人、すなわち、日本国内にいるすべての人に及ぶ。これについては、天皇についても例外ではないとするのが学界の通説といってよかった。

ところが、最高裁は、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるから、天皇には民事裁判権は及ばないと判断したのである(1989年〔平成元年〕11月20日)。しかし、天皇も私法上の権利主体となりうる(法学でいう権利能力、当事者能力がある)と考えるなら、右のような理由から天皇に民事裁判権が及ばないとするのは疑問であろう。

最高裁の判例は被告の場合についての事案だが、裁判権が及ばないという以上、論理必然的に、原告としての適格性もないことになってしまう(裁判権や当事者能力の問題を原被告で分けて考えるのは、法理論としての筋が通らない)。

そうすると、天皇は、たとえば名誉毀損行為等の不法行為の被害者になっても、裁判所に訴えてみずからの権利を守ることができないことになる。国民の基本権の一つが保障されないことになってしまうのだ。