人間として目覚めていく皇帝や王女の姿

私も、もうかなり前のことになるが、北欧のこうした王室の姿をテレビで見たことがある(オランダだったように思うのだが、確信はない)。愛らしい思春期前の少女(王女)が、記者たちに、「あっ、日本の人たちだ。私、スシもサシミも大好きよ!」と、実に屈託なく語りかけ、また、まずまずの豪邸程度の宮殿あるいはその一つから、自転車で友だちの家に出かけて行くところもうつされていた。

私の考えるあるべき天皇・皇族の姿は、以上のようなものである。それでこそ、広範な人々から温かな理解、愛情、信頼が得られるのではないだろうか。

映画『ラストエンペラー』〔ベルナルド・ベルトルッチ〕において、清朝最後の皇帝から満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎは、「私は皇帝だ」と名乗るごとに「証明してよ(Prove it.)」と問いかけられる。彼は、困惑しながらもそれに答え続けてゆくことを通じて、一人の人間として目覚めてゆく。

愛新覚羅溥儀(1906~1967)
愛新覚羅溥儀(1906~1967)(写真=作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

日本人を変えてゆく「天皇の人権」の尊重

また、映画『ローマの休日』〔ウィリアム・ワイラー監督、ドルトン・トランボ脚本〕で、オードリー・ヘップバーンのプリンセスは、ラストシーンの記者会見において、一瞬の恋人であったグレゴリー・ペックの記者を含む記者団を前に、「ご旅行中、どの国、どの街が最も印象に残られましたか?」と問われる。

瀬木比呂志『法律家が見た日本社会の病理「空気」を打ち破る個と論理の構築へ』(KADOKAWA)
瀬木比呂志『法律家が見た日本社会の病理「空気」を打ち破る個と論理の構築へ』(KADOKAWA)

そして、想定問答どおりに、「どの国も、どの街も、それぞれにいいようもなくすばらしく……」と言いかけてやめ、威儀を正し、決然と、「いえ、ローマです。私にとっては、ローマが一番です」と答える。これは、小国王族の可憐な少女が一人の成熟した女性に変身する瞬間をフィルムに定着させた、古典的アメリカ映画における真に輝かしいシークエンスの一つといえる。

これらの作品の王族イメージもまた、私の考える先のような王族イメージに通じるものをもっている。

日本の天皇・皇族が本当に一人の人間になること、その基本的人権や個人としての生き方、人間の尊厳が真に尊重されるようになることは、日本人全体のあり方をも変えてゆく一助となるはずである。

付け加えるなら、以上のような考え方によれば、天皇は女性であってもよいかとの議論についても、より柔軟に検討してゆくことができるであろう。

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