三島や鶴見が示した天皇制への言及

では、今日の日本において、あるべき天皇・天皇制の姿、皇族の姿、またそれらに関する国民のあるべき認識とは、どのようなものだろうか。

まず、前記のとおり、①天皇制も一つの公的な制度であり、そのような制度として国民の総意に基づくものである(憲法1条)ことが確認されるべきであろう。また、②そのあり方は、今後の日本のあるべき姿にふさわしく、一人の人間としての基本的人権をもきちんと認めたものでなければならないであろう。

もっとも、以上は私の考えだ。天皇がどのような存在であることが望ましいかについては、ほかにも、非常に広い選択肢がありうる。作家の三島由紀夫は、小説『英霊の聲』において、霊たちの声を借りつつ、「なぜ天皇は、人となってしまわれたのか?」と問いかけた。

作家・三島由紀夫氏(1955年)
作家・三島由紀夫氏(1955年)(写真=土門 拳/Public domain/Wikimedia Commons

一方、哲学者・思想家の鶴見俊輔は、「銭湯に入れるような天皇だったらいいと思う」と語っていた(長谷川四郎との対談「暮らしのなかの天皇制」。『鶴見俊輔座談 民主主義とは何だろうか』〔晶文社〕所収)。

いずれについても、極端な考え方だと思う人が多いことだろう。しかし、この二人は、異なった意味においてではあるが、いずれも、きわめて論理的に思考する人々だったのであり、先の言葉も、その論理を突き詰めたところから出てきたものなのである。そして、極端にみえる考え方というものは、それが明確な思想や信念の下に発せられたものであるなら、思考の枠組みを画するものとしての意味をもつ。

天皇といえども一人の人間である

私は、いわゆる国粋保守派の人々の天皇観は、実際には三島由紀夫に近いけれども、三島のある意味での純粋さを欠いた、つまり、実をいえば、前記のとおりみずからのイメージで天皇制を縛っておきたいという志向から出た側面の大きいものなのではないか、との疑いをもっている。

私の考え方は鶴見に近いが、銭湯というのは言葉の綾であり、要は、天皇といえども一人の人間であり、一人の国民、市民としての側面をももつことを認める、ということだと思う。

たとえば、スウェーデンの国王は、経済ミッションの名誉団長としての非公式来日時に、団員たち一行とともにマイクロバスで都心に向かった。また、王室(おそらくは侍従)から、国王が市中にプライヴェートな買い物に出かける際のためなどに、市中心の駐車場に一区画を確保してほしいと市当局に申し入れがなされたところ、回答は、「国王といえども私的な場面では法の下の平等に服すべきものと考えます(したがって、特別扱いはできません)」というものだった。

さらに、ストックホルムの書店では、プリンセスが立ち読みをしている姿が見られることもあるという。そして、国王自身も、「飾り気のない善意の誠実な人柄の、ごく平均的な教養ある中流紳士といった印象の方」であるそうだ(武田龍夫『福祉国家の闘い――スウェーデンからの教訓』〔中公新書〕)。