裁判員裁判制度が導入されてから10年がたった。日本の刑事裁判のあり方はどのように変わったのか。明治大学法科大学院の瀬木比呂志教授は「書面主義の古い体質が変わったことなど改善された点はあるが、裁判員制度にはいまだに解決できていない4つの大きな問題がある」と指摘する――。

※本稿は、瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)の一部を再編集したものです。

正義の女神
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導入から10年超、どう変わった?

裁判員制度についてはほかの書物でもふれたことがあるが、重要な事柄であり、かつ2019年には制度発足10年を機にメディアでも大きく取り上げられたので、ここで私の考えを総括しておきたい。

まず、この制度が、刑事系裁判官による刑事裁判という特殊閉鎖的な領域に穴を開けたこと、それが一つの契機となって刑事司法のあり方が一定程度変わってきたことは事実である。

具体的には、①著しく書面主義的であり、民事訴訟のあり方が変わった後にもほとんど変わっていなかった(古いままであった)刑事訴訟の実際的なあり方が多少なりとも改善された、②その結果として被告人の自白調書が採用されないことも珍しくなくなった、③不十分ながら証拠開示制度が取り入れられた、④評議においても、裁判員が入るため、裁判官としても、少なくともそれぞれの事件についてまじめに向き合わざるをえなくなった、などの指摘は、実務家からもなされているところだ。

また、市民、国民の司法参加という事柄自体のもつ意味は、私も否定しない。

しかし、市民の司法参加の制度なのだから当然支持すべきだとか、問題があってもとりあえず無視・軽視してもよい、などという態度で臨み、そうした枠組みの中での議論しかしないというのであれば、それには賛成できない。

「司法を身近に」を掲げることは正しいのか

裁判員制度は刑事司法にかかわる制度なのだから、その第一の目的は、冤罪の防止を含めた刑事裁判制度の改善に置くべきだというのが、私の基本的視点である。

関連して、裁判員制度の目的の一つとして、「司法をより身近にする」ことが挙げられているのについては、一抹の疑問も感じる。刑事裁判というのはきわめて厳粛なものであり、裁判員は、陪審員同様に、それなりの覚悟をもってこれに臨むべきだ。これは、間違いなく世界標準の考え方である。だから、司法をより身近にし、広い意味での法教育を行うための「手段」としてこうした重い制度を「利用」するというのであれば、そのような考え方には疑問があるということだ。

また、現行裁判員制度については、当時の刑事系トップ裁判官たちが刑事系の存続・権益確保に有利と判断してその導入に大きく舵を切った(反対から賛成に姿勢を一転した)という事情もあって、制度のゆがみが相当に大きい。