「マッチポンプではないか」と批判されても仕方がない

重罰化の傾向には判例、上級審が歯止めをかけているという意見もある。確かに、こうした歯止め自体は必要なことである。しかし、法律家の常識からみても、裁判員制度で重罰化の傾向が出てくることは最初から重々わかっていたはずであって、裁判所、裁判官を全体としてみるなら、「自分で火をつけて消しているマッチポンプではないか」と批判されても仕方がないところではないかとも思う。

また、判例、上級審が強い歯止めをかけるということになれば、市民の意見尊重という掲げられた制度趣旨からは外れてくることも否定できないだろう。

第一の点については、以上のように制度に大きな矛盾が出てきている以上、法改正に進むのが当然ではないかと考える。

多数決で死刑さえ決められるおかしさ

② 第二に、裁判員裁判の評決の方法がおかしい。

アメリカの刑事陪審員裁判は全員一致が原則であり、全員一致の評決に至らない場合には「評決不成立」となって、新たな陪審員が選ばれ、もう一度トライアルをやり直すことになる。やはり陪審制のイギリスでは、少数意見がごくわずかなら評決が成立する。

アメリカの法廷
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これに対し、日本の裁判員裁判では、評決についてはもちろん裁判官も裁判員も平等であるものの、過半数の多数決で結論が決まる(なお、多数意見には、裁判官、裁判員の双方が最低一人は加わらなければならない)。

しかし、これでは、裁判官3名が全員有罪意見であった場合、6名の裁判員のうち4名が無罪意見(したがって裁判員は2名のみが有罪意見)でも有罪判決になるわけだし、死刑判決さえ可能である(以上につき、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律六七条)。

これでは、市民の司法参加をいいながら本当は市民の判断など信用しておらず重きを置いていない立案者たち、また裁判所当局の態度は、明白といわなければならないだろう(なお、小坂井敏晶『人が人を裁くということ』〔岩波新書〕は、こうした合議体構成と評決の方法は、ナチス支配下のヴィシー政権がとっていた制度、フランス近代史上市民の影響力を最も抑えた制度と同一であると指摘している)。

情況証拠で有罪判決を行えば冤罪の原因に

そもそも、市民の司法参加の目的には、人権の重視、冤罪の防止という要請も含まれているはずであり、そこにおける有罪判決、特に死刑判決が多数決で可能というのは、非常識ではないだろうか(裁判官と参審員によって裁判を行うフランス、ドイツの参審制裁判でも有罪には3分の2以上の賛成が必要。なお、後記のとおり、ヨーロッパではベラルーシを除き死刑を廃止している)。