刑事系の存続・権益確保に有利というのは、たとえば、刑事事件の少ない比較的小規模な裁判所(地方の地裁には、重大刑事事件がごくわずかしかない庁もある)にあえて刑事部を置く必要があるのかといった疑問は昔からあったのだが、裁判員制度によってそうした疑問が封じられるとか、裁判員制度導入によって長い間劣勢にあった刑事系高位裁判官の裁判官集団における権益や支配力が増す、復活するといったことだ。

10年たっても解決できていない4つの問題

具体的に制度をみると、刑事系の存続・権益確保という隠された目的のために制度がゆがめられている可能性があること、実際には市民をあまり信用していないのに制度自体は性急に導入したためその大枠において市民尊重の趣旨が貫かれていないこと、以上2つの観点からの疑問提示が可能だ。

これらの観点を基に、具体的に、疑問点とそれらに関する私の意見を順に挙げると以下のようになる。

① 第一に、一定範囲の重罪事件(相対的に重大な事件)すべてについて裁判員裁判を行う必要はない。被告人が無罪を主張して争い、また市民の裁判を求める事案に限って市民参加の裁判を保障すれば、それで十分であり、また、適切でもある。市民の司法参加の制度についての基盤がなお薄い日本では、とりわけそういえる。

被告人が弁護人ともよく相談した結果有罪答弁をする場合に、実質的にはただ量刑を決めるだけのために裁判員を長期間拘束する必要はない。また、重い量刑を科する判断を行うことについては、大きな精神的ストレスを感じる市民も多いはずである。

この点については、刑事系の存続・権益確保のためにこうした制度になっている疑いが強い。

手錠をされ、法廷に立つ男性
写真=iStock.com/Chris Ryan
※写真はイメージです

ただ1件の参加で量刑を冷静に判断できるのか

大体、量刑というのは、基本的に、マクロ的な視野をもって醒めた目で決めてゆくべきものだ。ただ1件しか担当しない重大事件の被害を目の当たりにすれば、ごく普通の人間なら、どうしても重罰化に傾く。日本人の場合、相対的にみてその傾向は強いだろう(なお、アメリカの刑事陪審員裁判でも、量刑は裁判官が決めるのが原則である)。

もちろん、量刑に市民感覚を反映すること自体については、一定の意味がある。しかし、それは、有罪無罪を決すべき事案において有罪との判断になったら、最後の段階で裁判官が参考意見として聴取すれば十分であるし、また、適切ではないかと思う。

特に、死刑については、後記②の点とも相まって、きわめて疑問が大きい。

以上のことについては、裁判員辞退率が上がり続け、当初の53パーセントから67パーセント(2018年)と実に3分の2を超える高率になってきている(制度に対する人々の関心の低下、また、疑問・疑念が第一の原因であろう)現状では、特にそういえる。上のような数字をみると、重罰志向に懐疑的な人々は最初から辞退してしまいやすい可能性も十分に考えられるからだ。