※本稿は、瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)の一部を再編集したものです。
裁判官の世界は「官僚型ムラ社会」
裁判官といえば、普通の人々にはまずは黒い法服を着た姿しか思い浮かばないし、それは諸外国の裁判官と同じことなので、日本の裁判官も、「法と良心に従って裁きを下す独立の判断官」なのだろうと考えている人々が多い。
しかし、実際には、日本の裁判官は、その精神のあり方からみても、果たしている機能からみても、「閉じられた世界の役人」という部分が非常に大きい。つまり、一枚岩の性格の強い「司法官僚」であり、「裁判所という組織、機構、権力の(重要な)一部」なのである。
もちろん、個々の裁判官の中には、公的には独立心をもって職務を行い、私生活では普通の市民であるような裁判官のかたちをめざしたいと考えている人々もおり、私もその1人だった。しかし、現実には、司法エリートによって構成される強固なムラ社会、しかも裁判所当局の厳重なコントロール下にある官僚型ムラ社会の中でそのような志向を不断にもち続けるのはきわめて難しい。それが、日本の裁判官の「リアル」なのである。
官舎と裁判所を往復するだけの人生
私の知っている80年代以降の裁判官の生活といえば、それは、驚くほど変化や起伏の少ない、かつ小市民的なものであった。
日本の訴訟の進め方は、多数事件の同時並行審理方式であり、個々の事件については1カ月ごとぐらいに期日が入ることもあって、審理裁判は、いきおい訴訟記録に頼ることになる。つまり、書面重視の傾向が強い。だから、裁判官は、法廷のない日には、裁判所で記録を読んでいる。家にも記録を持ち帰って読み、審理のためのメモ(手控え)を作ったり、判決を書いたりする。
法廷、和解(民事の場合)、記録読み、判決起案、民事執行・民事保全・破産等の民事訴訟以外の民事事件、令状処理。裁判所で仕事が終わらなければ、家へ帰ってまた記録読み、判決書作成。だから、職場からの帰りにどこかに寄ることも少ない。官舎と裁判所、後には自宅と裁判所の往復でほぼ人生が終わる。それが日本の裁判官である。