※本稿は、瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)の一部を再編集したものです。
なぜ大事件を避けたがるのか
ここで一つ、日本の裁判官の性格がよくわかる質問をしてみたい。
「裁判官は、大きな事件について、やりがいを感じる、ぜひやりたいと思うものでしょうか?」
答えは、一般的にいえば「否」である。
東京地裁では、特別に大きな事件は通常の事件とは別に各部に順番にまわしていたが、裁判官たちは、それが今どの部まできているのかをいつも気にしていた。できれば自分の転勤までにそうした事件にあたらないですませたい、たとえあたるとしても判決を書くような事態は避けたい、それが、ほとんどの裁判官のいつわらざる思いだったと思う。
なぜそうなるかといえば、大事件は準備が大変で訴訟指揮も難しいし、記録が膨大なものになる(ロッカー1つ2つがいっぱいになるのはよくあること)のでことに判決を書くのは大変になるからだ。
また、大事件を担当してもそれが必ずしも評価に結び付かず、場合によってはむしろ「失点」になることもあるからだ(価値関係訴訟の場合の果敢な判断など)。実際、事務総局勤務の長い裁判官たちは、東京で裁判長をやる場合でも、判決時期の近い大事件の係属するような裁判部にはまず配属されていない。
弁護士は、当事者に支えられ、勝訴すれば当事者とともに喜ぶことができる。しかし、裁判官にはそのような支援も機会もないので、果敢な判断を行っても、社会が支えてくれないと、狭い裁判官集団の中で孤立してしまいやすい。また、先のような事件が必ずしも社会的注目を集めるとは限らないし、たとえ集めても一瞬のことで、原発訴訟の場合のような特殊な例外を除いては、誰も裁判官の名前すら記憶していないのが普通だ。
特に行政訴訟では及び腰になりやすい
こうした事情を考えるなら、官僚的傾向の強い日本の裁判官たちが大事件を避けたがるのは当然ともいえる。そうした事件の判決を2回書いたことのある私には、そのことがよくわかる(クロロキン薬害訴訟事件、東京地裁1982年2月1日判決。嘉手納基地騒音公害訴訟事件、那覇地裁沖縄支部1994年2月24日判決)。
また、特別な大事件に限らず、価値関係訴訟、ことに行政訴訟では、裁判官たちの姿勢は及び腰になりやすく、何とか棄却や却下、また勝訴の可能性がある場合には和解(民事訴訟の場合)の方向で事件を終わらせようとするインセンティヴが強くはたらくのが通例である。