「国民は有罪と信じているのに無罪にできない」

刑事系の裁判官には、刑事に詳しいという長所もある。しかし、多数の事件を担当するとその中にはありえないような弁解をする者も一定程度出てくることから、「被疑者、被告人の言うことは信用できない」という予断を植え付けられてしまう場合も多い。

私の知る範囲でも、被疑者、被告人について「奴ら、あいつら」などという呼び方でふれる人がいた。ここには、被疑者、被告人に対する憎しみやさげすみの感情が露骨に表れており、その性質は、インターネットの書き込みにみられるようなそれとさほど変わらない。

また、かつての刑事裁判長には、「被告人は平気で嘘をつく」、「検事がそんな変なことをするはずがないだろう」、さらには、「国民が皆有罪と信じている被告人をなぜ裁判所だけが無罪とすることができるんだ」などといった信じられない発言を合議等で堂々とする人も多かったという話を、私は、信頼できる元刑事系裁判官から聴いたことがある(その裁判官は、「今でもそういう考えをもっている人は決して少なくないと思うが、少なくとも、裁判員裁判では、そうした発言を合議の場ですることだけはできなくなった」と語っていた)。

裁判が始まる前に秤は片方に振れてしまっている

私自身の経験でも、かつての刑事裁判長には「被告人の争い方が悪かった場合には有罪判決なら量刑を重くする」という考え方をもつ人が結構いた。しかし、被告人は争う自由があるのであり、また、「争い方が悪い」かどうかの判断は裁判官の主観に左右されやすいことを考えると、裁判官の客観性、中立性という観点から問題ではないかと思ったものだ。

瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)
瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義を全うできないのか』(角川新書)

検察官との関係についていえば、行政訴訟の場合と同様、心情的に検察官側に片寄りやすい。秤が最初からそちらに振れてしまっているということだ。弁護士は事件ごとに変わるが検察官はおおむね固定しているし、多くの裁判官には、検察に対する忖度そんたくの習慣、また無罪判決に対する一種の恐怖が、無意識のうちに刷り込まれてしまっている。これには、無罪判決が検察官の大きな失点になるという事情も関係している。

以上のような背景もあって、東京等の大都市を中心に存在する刑事専門の裁判官集団、ことに東京のそれには、裁判官という閉鎖社会の中に刑事裁判官集団という「より内側の閉鎖社会、より一枚岩の閉鎖社会」を形作っているような側面があった。これは、日本の刑事裁判の問題点を考える際に重要な事情として理解しておくべき事柄の一つである。

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