世界大戦の最中でも自分の生き方を貫いた女性たちがいる。作家の平山亜佐子さんは「オーストリアの“コーヒー王”マインルと結婚した女優・歌手の田中路子は、1938年同国がドイツに併合される直前、映画『ヨシワラ』で早川雪洲と共演し彼に籠絡された」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

映画スター・早川雪洲(1889~1973年)の宣伝写真、1918年
映画スター・早川雪洲(1889~1973年)の宣伝写真、1918年(写真=Fred Hartsook/Imperio Retro/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

欧州で歌手・女優として成功した

禍福はあざなえる縄のごとし、強運の田中路子にも不運が襲う。

この頃、フランスの映画会社リュッスからモーリス・デコブラ原作の映画『ヨシワラ』への出演オファーが来た。ピエール・リシャール・ウィルム、早川雪洲との共演だった。ウィーンに帰って夫のマインルに相談すると賛成してくれたため、路子は話を受けたが、この映画で後に思いもよらぬダメージを受けることになる。

パリで行われた撮影に全力で取り組む一方、いつものマキシムやシェヘラザードなど一流の遊び場で楽しんでいたが、ロンドンに住む恋人のツックマイアーと遠距離になり、寂しさが募った。そんなある夜、夜中にツックマイアーのホテルに電話をかけてみると妻が出た。ショックを受けた路子は別れを決意する。

1938(昭和13)年3月12日の午後、路子はラジオでオーストリアにドイツ軍が侵入したことを知った。夫に電話をしたが繋がらないためウィーンに旅立った。マインルは憔悴しており、すぐにパリに戻れと言う。路子はユダヤ人の友人たちが心配になり、家々を車で回りみんなが国外に持ち出したいものを預かった。マインルの宝石も受け取り、路子は一路パリに戻った。

映画「ヨシワラ」で早川雪洲と…

『ヨシワラ』の撮影が終わると、希代のプレイボーイである早川雪洲からのアプローチが始まった。路子は手もなく籠絡され、例によって速やかにツックマイアーに電話をかけて別れを告げた。そして早速パリ16区パッシーにアパルトマンを借りて雪洲と同棲し、プロダクション設立に協力し始めた。ところが雪洲には日本に置いてきた妻子の他に元芸者の女性、アメリカ人女性の間にも子供がいることがわかった。また、アメリカ人女性がアパルトマンにやってきたとき、雪洲は彼女の髪を掴んで階段から突き落とした。路子は彼の本性を知って急速に冷めてしまった。

悪いことは重なるもので、『ヨシワラ』が日本で国辱映画として槍玉に挙げられて上映できなくなった。実は当時ベルギーにいた武林文子が娘を出演させようとしてできなかった腹いせに路子にフラれた「日本の名士」とともに運動した結果だと後で聞いた。結局、この映画が日本で封切られるのは戦後となった。