世界で一番有名な日本の伯爵令嬢は、フランス人も認める美貌の持ち主で、性格も良かった。ノンフィクション作家の平山亜佐子さんは「通称バロン薩摩と結婚した千代は、夫に同行し、20世紀前半のパリでまさにセレブというべき豪華な生活を送った」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

お妃候補にもなった伯爵令嬢

その美貌から「ドーリー」とよばれた千代は、本当に人形だったのだろうか。

薩摩千代は1907(明治40)年、伯爵の山田家に生まれた。

父の英夫は陸軍軍人および貴族院伯爵議員だが婿養子である。英夫の父、つまり千代の父方の祖父は元会津藩主松平容保かたもり、新撰組を起用したことでも有名な人物。千代の母方の祖父である山田顕義は元長州藩士、松下村塾に学び戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争などで功をあげて陸軍中将となった後に伯爵となり、司法大臣をつとめ日本法律学校(現日本大学)を創立している。松平家、山田家の家柄の良さ、評判の良さは、千代が秩父宮の妃殿下候補になったことからも想像がつく。

千代の祖父である山田顕義伯爵
千代の祖父である山田顕義伯爵、1892年以前、『近世名士写真 vol.1』より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

家風は厳格で、千代は華族の令嬢らしく女子学習院に通い、ピアノ、琴をたしなみ、着るものも親の勧めに従っていた。

丸顔で目鼻立ちのくっきりした顔立ちで、学校では「ギリシャ美人」と呼ばれていた。

夫・薩摩治郎八の「太すぎる」実家

千代の未来の夫、薩摩治郎八は1901(明治34)年生まれ、祖父は貧農から木綿問屋となり、巨万の富を築いた「木綿王」である。治郎八が生まれた神田駿河台の家は桂離宮を模したといわれ、1町(約100メートル)もの石垣が続く大邸宅で、海外の要人もやってくる民間の迎賓館のような存在で、西洋館を増築したといっては大舞踏会を開催するなど華々しい家庭だった。

2代目である治郎八の父は事業よりも文化事業や趣味に熱心で、祖父が亡くなると人力車がビュイックに代わり、英国風花壇や温室が登場、大磯、箱根、京都に別荘を造るなど、生産より消費の家風に変化していく。

治郎八は開成中学、高千穂中学に行くも中退。大磯の別荘に籠って文学に傾倒し、1920(大正9)年、妹ともに念願のイギリス遊学に発った。

ロンドンでは「アラビアのロレンス」のモデルとなったT・E・ロレンスやコナン・ドイルに会い、ディアギレフやイサドラ・ダンカンのダンスを観るなど舞台芸術に開眼。1923(大正12)年4月にはパリに移住して藤田嗣治やモーリス・ラヴェルらと親交を深めた。

しかし5カ月後に関東大震災が起こり、薩摩家は打撃を受ける。家屋8カ所と本所の土地が全焼、損害は670万円(現在の約40億円)にのぼった。しかし人的被害はなく倉庫なども助かった。治郎八は父から倹約を言い渡す手紙を受け取ったがすぐには帰らず、フランス人女性との恋も経験した後、1925(大正14)年2月に帰国した。

この年の6月、治郎八の結婚相手として浮上した千代の身元調査が行われた。