日本のファーストレディとして活動

1927(昭和2)年、パリ日本館が評議委員会で承認されると父と治郎八はフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けた。

そして10月12日、敷地面積1200平方メートル、地上7階、地下1階、60室、藤田嗣治の絵画が2点飾られた日本館が完成した。

開館式では治郎八はランバンの名カッター、エリクソンが仕立てた紫紺の燕尾服(黒ではないところが新しく、以後、紫紺の燕尾服が流行した)、千代はポール・ポワレの白と黒のイブニングドレス、ポワレやシャネルを担当するアンドレ・ベルージアに特注した10カラットのダイアモンドの付いた靴、ダイアとエメラルドのアクセサリーといういでたちで登場。フランス大統領ガストン・ドゥメルグのほか前大統領、前々大統領も出席した国家レベルの式となった。

夜の晩餐会はオテル・リッツで開かれ、名士300人が招かれた。そこにはロスチャイルド家から3人、ポリニャック大公妃の名も見えたという。料理はエドワード七世歓迎晩餐会の「フランスの威信をかけたメニュー」(『薩摩治郎八パリ日本館こそわがいのち』)にオマージュを捧げたものであった。いつしか治郎八は「バロン・サツマ」と呼ばれるようになる。

パリの社交界の華、藤田嗣治とも親密に

さて、夫婦として社交の場に駆り出される以外の時間、千代は何をしていたのだろう。

実は治郎八、フランス人女性たちと浮名を流して家に帰らない日も多かったが、千代は上流夫人の常として一向に気にしなかった。美しく金持ちで有名人とあれば千代に言い寄る者も多かっただろうが、一顧だにせず(女性のシャンソン歌手シュジ-・ソリドールとカフェテラスで頰ずりしているところを見かけられたりはしたが)。なにしろあまりに性格がいいので「愚美人草」と陰口を言われたほどの千代のこと、彼女が夢中になっていたのは酒、ダンス、絵画だった。

パリでは一日中酒を飲む習慣があって、下戸だった千代もたちまち酒豪になった。ダンスは治郎八がやらないので、藤田嗣治とよく二人で踊りに行き、帰りに「ドーちゃんはお子様だからね」とおもちゃのオウムを買ってもらったこともあった。ドーちゃんとは「ドーリー」の略で藤田による千代のあだ名である。

パリで活躍していた画家・藤田嗣治
パリで活躍していた画家・藤田嗣治、ジャン・アジェルー撮影、1917年(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

絵画は、モンパルナス大通りのアパルトマンをアトリエに借り(上の階には佐伯祐三がいた)、藤田から紹介されたピエール・ラプラードを師匠に励んだ。モンマルトルのキャバレー「ムーラン・ルージュ」の舞台裏にスケッチにも行った。絵には「ドリー・サツマ・チヨ」とサインした。傍ら、藤田をはじめキース・ヴァン・ドンゲン、高野三三男らの絵のモデルにもなった。