ロンドン、パリで遊学した治郎八と結婚

調査書には「円満率直なるだけに事物に対する考察力批判力等は勝れざる方にて諸事鷹揚しょじおうようの二字に帰着すべし」と記されていた。結婚に積極的だったのは薩摩家で、山田家は難色を示していたとも言われるが、この頃は金持ちの商売人と質素な華族の結婚はよくあることだった。

式は翌年に帝国ホテルで行われ、招待客は280名、リストには華族に並んでフランス大使館の面々や堀口大學などの名前もあった。また、式の4日後には芝の紅葉館で山田家主催の会が開かれた。

前年に大震災で焼けた駿河台の家の跡地に、治郎八はパリ風の凝ったVilla mon Caprice(気まぐれ荘)と名付けた家を建て、新婚夫婦はそこに住まった(戦後、偶然獅子文六が住むことになり『但馬太郎治伝』が書かれる契機の一つとなる)。

新妻の千代には西洋式マナーや洋装、化粧、フランス語、フランス文学や芸術の勉強が待っていた。この後、パリに移住して社交界にデビューする計画があったためだ。純和風に育った千代にとっては未知の世界だっただろうが、生来の真面目さでこなしていった。夫妻は1926(大正15)年9月16日に神戸からパリに向けて出発した。

自宅での薩摩千代(千代子)、雑誌『スタイル』1936年8月1日号より
自宅での薩摩千代(千代子)、雑誌『スタイル』1936年8月1日号より

渡欧しニースの美人コンクールで優勝

このとき治郎八には重大な使命があった。

パリの大学都市構想に基づき、日本政府が在仏日本人留学生のための舎宅「日本館」建設を薩摩家に依頼、治郎八は現地で視察、調印などを行うことになっていたのだ。

パリに着いた千代は早速長い髪をボブに切り、運転免許を取得、藤田嗣治に勧められて洋画を始めた。

夫妻はパリ16区の南側のアパルトマンに引越してルイ15世様式の家具を入れた。そして車を3台変えた後にクライスラーを買った。

ボディをいぶし銀に塗り、金はすべて純金メッキ、屋根と泥除けと内装は紫という代物で、カンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場した際には銀鼠の地に金糸で揚羽蝶の定紋を付けた制服を着たイギリス人運転手を配置し、千代にはリュー・ド・ラペのミランドで誂えた薄紫に銀色のビロードのテーラードスーツを着せた。これらはすべて治郎八のセンスである。結果、スウェーデン王室の車を抑えて見事大賞に輝いた。

さらに千代はニースの美人コンクールでも優勝し、Minerva(ミネルヴァ)、Excelsior Mode(エクセルシオール・モード)、L’art Vivant(ラール・ヴィヴァン)などのファッション誌を飾った。一躍パリの最先端女性に躍り出た千代という作品に治郎八は大満足だった。