薩摩家の金を使ってセレブ生活

夫婦はギリシャやベルギー、イタリア、イギリスに旅行に行った。ふたりの生活費はすべて治郎八の父が出しており、その額は月3万円(現在の約2000万円)と言われている。たまに途絶えることがあると治郎八は逆為替を利用してパリの銀行から金を借り、父親に取り立ててもらうことさえした。

薄物をまとって夜な夜な遊ぶ千代は風邪をひきやすく、そのたびにニースやドーヴィルに保養に行っていたが、1930(昭和5)年8月頃、風邪をこじらせて肺尖カタルになり、アルプス地方ムジェーヴの高級サナトリウムで療養することとなった。その後、少し持ち直したものの翌年再びムジェーヴにて療養することとなった。

その後、少し持ち直したものの翌年再びムジェーヴにて療養。1935(昭和10)年には虫垂炎から腹膜炎を起こしてまたもや病床の人となった。治郎八はときどき見舞いに訪れたが、プラハ市立美術館に日本美術部門ができるといえば講演を行い、20点の作品を寄贈するなど飛び回っていた。

10月末、薩摩夫妻は日本に戻った。

その理由は、実家の薩摩商店がついに閉店となったためだ。とはいえ、多少の財産は手放したものの生活が突然変わるわけではなかった。

パリから帰国した薩摩千代(千代子)、雑誌『婦人倶楽部』17号、1936年
パリから帰国した薩摩千代(千代子)、雑誌『婦人倶楽部』17号、1936年

夫婦とも体を壊し帰国、別居状態に

千代を日本に残して治郎八は再びパリに向かい、途中で東南アジアに寄る。タイ南部、マレーシア国境近くに金鉱があると聞いたためで、あくまで男のロマンを追い続ける人である。結局失敗に終わり、肝臓疾患に罹って帰国、京都と大磯の別荘にて療養することになった。同じ日本にいながら夫婦は別々となって、手紙の行き来はしていたものの以降は同居することはなかった。結婚からわずか5年間の同居生活だった。

すぐにパリに戻るつもりだった治郎八だが、日中戦争の勃発で戻れなくなった。パリの日本館が内装補修を名目に閉館し、再開の目処がたたなかったことに気が気ではなかったが(そして表向きにはそう言っていたが)、どうも彼が「フランス妻」と呼ぶ女性の存在があったようだ。そんな治郎八に、千代は手紙を送っている。

「PAN(治郎八)がそれほどまでに決心してるなら、そうして死んでも本望なら決して私からはとやこう云う事はありません。国際市民たる貴方に、一家や夫婦の小さな感情は問題ではないからあくまで心ゆくまで自分の仕事をするように。いつ万一ムク(千代)の将来にどんな事が来ても、PANに万一の事があっても覚悟しています。(中略)PAN君の為にいさぎよく別れてもよろしい。別れたとして、もともと我々夫婦は変った夫婦、今までのようにBONAMI(良い友人)でいられるでしょう」。