「夫のためなら潔く別れても…」
危険を顧みず一刻も早くフランスに戻りたい治郎八の気持ちを離婚や自分の死よりも尊重すると書いているのだ。上流社会の人の価値観は不思議である。
千代と治郎八は恋人、夫婦というよりはともにさまざまな経験をした友人、同志のような存在なのだろう。PAN、ムクはぬいぐるみの名前で、薩摩家にはぬいぐるみの名前を自分のものにする習慣があった。千代はちゃんとその流儀にも染まっている。ドロドロした感情のもつれなどは持ち込まない、これもひとつの夫婦のあり方なのだろう。しかし誰よりもモダンな生活をしていた二人が、ぬいぐるみの名で呼び合っているのはなんだか奇妙な印象を受ける。
1937(昭和12)年11月、千代は富士見高原療養所に5カ月入院する。療養所では俳句の会と写真の会に熱中し、千代の美しさに会員が増えたともいわれた。
退院後は富士見高原に家を借りた後、その近くの諏訪郡落合村の170平方メートルの土地に2階建てのフランス風の山小屋を建て、絵画や家具を持ち込んで3人の使用人と移り住んだ。その金を出したのは千代の実家だった。
独りで苦労したが誠実に生きた
戦争が始まると村の勤労奉仕に参加したりしていたが、頼りにしていた同居の看護婦が亡くなり、村人の態度も一変、飼っていた愛犬を殺して食用にすると脅されたこともあったという。そんな時でも誰をも恨まず、宗教に頼ることもなかったというからあっぱれである。千代を見舞った同級生は獅子文六に、富士見での生活をそれなりに楽しんでいたが「おやつれがひどくて、あの方独特のお顔のハデさが、すっかり消えておしまいになった」と話していた。また、治郎八がどこにいるか千代は知らず「あまり知りたいご様子でもなかったわ」とのこと(『但馬太郎治伝』)。
過去は過去として、目の前の暮らしに向き合っていたのだろう。
1949(昭和24)年3月14日、千代は42歳で死去した。
治郎八はといえば、1939(昭和14)年12月という第二次世界大戦開戦ギリギリの時期にやっと渡仏し、戦中戦後の12年もの間、フランスにいた。健康を害し、カンヌやコート・ダジュールの小さなホテルで暮らしていたというが、どのように糊口をしのいでいたかはわからない。千代の死の際に薩摩家の家扶が連絡したにもかかわらず帰国しなかったため、山田家は相当怒っていたという。


