現会長である豊田章男の父、章一郎。それまで自工と販売で分かれていた会社を1982年に合併させた。章一郎の徹底した「品質管理」の姿勢は、どのようにして培われてきたのだろうか――。

第七章 章一郎のトヨタ生産方式

検査を厳しくすればミスがなくなるわけではない

豊田喜一郎の長男、章一郎が生まれたのは1925年。昭和になる直前の大正14年だった。戦後、財閥解体が始まり日本国憲法が施行された1947年、章一郎は名古屋大学工学部機械科を卒業した。大学に通っていたのが第二次世界大戦中と敗戦直後だったこともあり、勉強することもままならなかった。父親の喜一郎から「大学院で勉強し直したらどうか」と勧められ、東北大学大学院工学研究科に入学、仙台市内に下宿して通った。

父親の喜一郎は敗戦後、衣食住の3つすべてについて事業化を考えていた。大学院にいた章一郎を稚内にあった水産加工会社へ派遣し、ちくわを焼く機械の研究をさせたのは食に関する事業設立を検討していたからだ。章一郎は大学院を出た1950年に名古屋へ戻り、その年の6月に設立された住宅事業のユタカプレコンの創業にかかわる。

章一郎は住宅事業に参画しながら、ミシン製造も学んだ。ユタカプレコンは後にトヨタホームとなる。

1952年、父親の喜一郎が病死した。章一郎はトヨタ自動車工業の社長、石田退三に呼ばれ、27歳で取締役として入社する。平社員ではなく、最初から取締役だった。ただし、当時のトヨタ自工はまだ乗用車の会社ではなかった。従業員数は5160名。車の生産台数は1万4000台。台数の9割近くはトラック、バスだった。

章一郎本人はこう言っている。

「当時は取締役といっても5、6人しかいない小さい企業で、売り上げだって百億円くらいでしたよ」(「サンデー毎日」1991年4月14日号)

1952年の売り上げは約62億円。100億円もなかった。

章一郎とトヨタ生産方式(TPS)との出会いは大野耐一と一緒に仕事をしたことだった。1954年、大野耐一が取締役になり、部品をつくる機械工場のなかだけのものだったTPSが全生産工程に広がっていった。同じ取締役として章一郎もまたTPSを広げていくことに協力したと言っていい。

また、彼は入社した翌年の1月には検査部長に就任している。検査のプロだった。そして、品質管理、クオリティコントロールでも章一郎はその道の権威となっていく。