偉人と呼ばれる人たちは、山あり谷ありの人生をどのように生き延びたのか。ライターの栗下直也さんは「例えば、漫画家の水木しげるさんは職を転々としてもまったく気にしなかった。働くことはあくまでも幸福になるための手段でしかないことがとわかっていたからだ」という――。(第2回)

※本稿は、栗下直也『偉人の生き延び方』(左右社)の一部を再編集したものです。

漫画家 水木しげる
写真=共同通信社
水木しげるさん=2013年2月28日、東京都調布市の水木プロダクション

ラクして、楽しく暮らしたい男が選んだ副業

副業の王道といえば不動産ビジネスだろう。物件選びさえ間違わなければ、サイドビジネスどころか働かずに利回りで暮らせる。不動産投資は、そんな夢を多くの人に抱かせる。『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家の水木しげるもその一人だ。

有名人が有り余る資産を運用する一環で不動産に投資するのはよくあるケースだが、水木の場合は事情が少し異なる。ラクして、楽しく暮らしたい。働かないでごろ寝して暮らしたい。そんな一念で手元資金が決して潤沢でない、まだ何者でもない時代にアパート経営に乗り出している。

水木は大正11年(1922年)、大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。昭和12年(1937年)に高等小学校を卒業し、大阪の印刷会社に住み込みで就職するも、嫌いなことができない性格のため、失敗の連続だった。2社続けてクビになり、心配した両親が手に職をつけさせようと園芸学校を受験させるも定員50人で受験者が五一人の入試に落ちる。ぶらぶらしているわけにもいかず、大阪の夜間中学に編入する。

太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に軍隊に召集され、南方戦線で片腕を失い、重傷を負いながらも九死に一生を得る。内地に帰還後、水木の「副業」人生が始まる。水木は失った左腕の本格手術のため相模原病院(旧陸軍病院)に入院するが、その時にたまたま新聞広告を見て、武蔵野美術学校(現武蔵野美大)を受験する。