※本稿は、市野瀬早織『東大合格者が身につけた 一生使える「読み方スキル」』(東洋経済新報社)の一部を再編集したものです。
国語の授業で「こだわっていた」こと
「読者論的読み」とは、書かれている内容を「どんなふうに読むか?」がすべて読者の自由に委ねられている読み方のことです。
この「読者論的読み」は、自分の頭で考えられるようになり読みの可能性をぐぐっと広げてくれる、ある意味高度な読解です。
私が現代文の教員として意識的に取り入れていた授業内での取り組みは、「初読の感想のテーマはオールフリーにする」というもの。
はじめて取り扱う文章ほど「読者論的読解」から入っていくことの効果を感じていたからこその取り組みです。
では、それはなぜだと思いますか?
私は「外的要素は思考の方向性を一方向に定めやすい」という点に配慮していたのです。
ちょっと小難しい言葉で説明してしまいましたが、つまりこういうことです。
「これは○○氏の解説によると、こういう作品だ」
「○年に書かれたから、あの出来事を元にしているはずだ」
など、文章に書かれている内容ではない、ほかの情報が先に入ってきてしまうと、その情報に引きずられ、与えられた情報の確認作業のような読解に留まってしまうのです。
100人いれば100通りの見方がある
言わずもがな、これは読者が自由に言葉そのものを味わい、登場人物の言動や、作品のメッセージを考える余地を奪ってしまうことになりますね。
私は教え子生徒たちの「思考力や感性を高めたい」という理由から、どうしてもこれを避けたいと考えていました。
そこで、最初に文章を読むときには先入観抜きに読めるように、特別な情報は何も与えずにフラットな状態でひたすら文章だけを読むということに集中してもらっていたのです。
では、どうして私は「最初は読者論的読み」と、こだわっていたのでしょうか?
もう少し端的に言えば、自分ならではの視点をもって考える力を養うことが、結局は社会に出て活躍する人材を育てることになると実感していたからです。
100人いれば100通りのものの見方があり、どれが優れていてどれが劣っているということはありません。
どの考えもそれぞれに一理あると感じることもあるでしょう。
そしてその人の考えが浅いと感じられたとしても、それはそういうものとして、その考えを知った人の教訓にだってなるでしょう。


