専属ドライバーが運転し、後席にオーナーを乗せて走る車をショーファーカーと呼ぶ。センチュリーは、日本を代表するショーファーカーだ。2023年に登場した新しいセンチュリー、その開発秘話に迫る。

ドライバーだけが知っているセンチュリーの「本当の運転しやすさ」

日本で初めて走った乗用車はドライバーズカーではなかった。ショーファーカーだったのである。

1900(明治33)年のことだ。

「同年2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)を期して、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子姫とのご婚約が発表され、5月10日にご成婚の式があげられることが決定された。この慶事に対して、アメリカのサンフランシスコ在留日本人会が、陸奥広吉領事と協議して、お祝品を献上することになった。その結果、当時アメリカで発達途上にあった自動車を献上することになり、邦価3万円(注・現在の価格にすると約1億6000万円)という多額の拠金を集め、特別注文による自動車1台を日本に発送した。

日本到着後、宮内省への献納手続きをすませてから、その自動車は青山御所内に納められたが、最初の試運転のときに、誤って紀伊国坂あたりの濠に落ちてしまった。幸いにして運転手(注・ショーファー)にも車にも損傷はなかったけれど、こんな危ないものを皇太子の御料車にするわけにはいかないと、結局は使用されずに終わってしまった」(『舶来事物起原事典』 富田仁 名著普及会)

ただし、同書の著者は「このエピソードには疑問も多く一種の伝説」ともしている。皇居の濠に落ちて損傷がゼロというのは考えにくい。いずれにせよ、自動車が日本に登場した当初、走っていた車はショーファーが運転していた。

センチュリーという車を考えるうえで、どうしても欠かせない点はオーナーが自分で運転する車ではないことだ。大半の時間はショーファーが運転し、オーナーは後部座席(後席)で乗り心地を楽しむ。ショーファーカーをつくるメーカーはドライバーとパッセンジャー(乗客)の双方を満足させなければならない。

普通の乗用車を開発するのであれば開発担当はオーナードライバーの意見を参考にすればいい。しかし、センチュリーの場合はそうはいかないのである。

センチュリーSUV型の開発主査、田中義和はドライバー、パッセンジャーの双方に長時間、話を聞いた。試作車ができたら、ドライバーに運転してもらい、パッセンジャーには後席に座ってもらった。そうやってセンチュリーSUV型を完成させた。ショーファーカーを担当する開発、生産工程の人間はつねにドライバー、パッセンジャーを頭に置いておかなくてはならない。その点が他の車との最大の違いだ。なお、世界中に自動車メーカーは数あるが、ショーファーカーを常時、量産しているブランドはロールス・ロイス、メルセデス・マイバッハ、トヨタくらいである。

さて、トヨタ本社の技術本館で会った田中は「私たち開発担当はドライバー、パッセンジャーの方々に話を聞きました」と言った。なかでも田中が長時間、複数回、話を聞いたのが豊田章男と彼の専属ドライバーたちだ。豊田は同車の発案者だ。トヨタのマスタードライバーとして同社製の車にすべて乗っている。評価ドライバーとしてレースにも出るプロフェッショナルだ。車を評価する第一人者である。専属ドライバーはチームで仕事をする。その中には、センチュリーセダンの開発者でもある豊田章一郎のショーファーを務めた人もいる。田中にとっては彼らがもっとも心強い相談相手だった。同時に、試作車について厳しい評価を下す人たちだった。

田中は専属ドライバーたちから聞いた話を今も忘れていない。

(イラストレーション=浅妻健司 写真提供=トヨタ自動車)

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