「亡くなって46年が経つ今も従業員たちに慕われ、ともに働いたことを誇りに思わせる経営者というのは、いったいどういう人物だったのだろう?」黒木亮さんの最新の著作は、素朴な疑問から出発した。
「書いていて涙が出そうになるのは、しょっちゅうでした」思い出深い場面は、昭和20年6月に、神戸の川崎製鉄の工場が米軍の徹底した攻撃にあった翌日のシーン。瓦礫が散乱し、煙がくすぶる工場で、西山弥太郎(川崎製鉄初代社長)は、「もし占領されても、敵はこの優秀な工場を廃物にはすまい。いずれ誰かの手で工場を動かす日がくるだろう。それを我々の手でやろう」と、自分の胸にすがって男泣きするベテラン工員を励ました。
「西山弥太郎さんは、松下幸之助、盛田昭夫、本田宗一郎クラスの大物経営者ですが、自分を誇ったり、語ったりするのが嫌いで、勲章さえ辞退しようとしたほどです」それゆえこれまで鉄鋼業界以外では知られずにきたという。
「彼の最大の功績は、戦後間もない昭和28年に、世界最新鋭の千葉製鉄所を建設したことですね。あれがなければ、日本の鉄鋼業や高度経済成長は5年から10年遅れていたはずです」当時、建設に反対した日銀の1万田尚登総裁が「建設を強行するなら、敷地にぺんぺん草が生えるぞ」といったエピソードは有名である。当時の千葉は、夜は真っ暗な僻地で、花の神戸から転勤してきた従業員たちは、遊郭や病院を買い取った寮に住み、現場以外では太陽を見ないほど働いた。
「みんな西山さんが大好きで、彼の掲げる理想に共鳴していたんです。感心するのは、彼の人の叱り方の上手さですね。仕事の内容については叱るけれど、人格攻撃は決してしない。本人が反省しているときは、逆に励ます。一度叱ったら、次は決してそのことを言わない。どんなに叱られてもじーんと温かい気持ちになったそうです。まさに『人を動かす』ですね」通産省の若手官僚たち、第一銀行頭取酒井杏之助、八幡製鉄社長三鬼隆、日本開発銀行理事中山素平らも、西山の先見性や人柄にほれ込み、野心的な千葉製鉄所建設計画を後押しした。
「取材のハイライトはワシントンの世界銀行で、段ボール2箱分の川崎製鉄向け融資の関係書類を閲覧したことですね。昔はファクスもなく、やり取りはすべてハトロン紙の便箋にタイプ打ちの航空便です。西山弥太郎さんがサインした手紙の現物もそのまま残っていて、当時の熱い息吹を肌で感じましたよ」