遺伝子の「運び屋」として

アメリカは徹底した実力主義でもあった。実績が出せない人間は短期間で研究室から去る。中村はこのままアメリカに居つづけることも考えたが2006年に日本へ戻った。

帰国後は独立行政法人科学振興機構に所属しながら、東京大学医科学研究所で研究を続けた。そして2009年、医科学研究所の特任准教授に就任。職務はウイルスベクター製造の「工場長」だったという。

ウイルスベクターは遺伝子の「運び屋」とも称される。人体に影響のないように弱毒化したウイルスを作り、そこに治療用の遺伝子を乗せて体内に運ぶ。

「細胞をディッシュ(容器)で培養します。ウイルスは自己複製して増えていきます。複製したウイルスから不純物を取り除く」

職務以外の時間は自らの研究に没頭し、論文を執筆した。論文を認められれば国からの助成金を受け取ることができる、それを次の研究費に充てる。そのうち、中村は他の研究者が考案したウイルスベクターを作るだけでは面白くないと思うようになった。そんなとき鳥取大学医学部生命科学科准教授の募集を目にした。

投資家との打合せ場所は「プライベートジェット」

「母校ですし、自由にできるんじゃないかって思ったんです」

しかし、である――。

写真=中村 治

メイヨークリニックは世界の最高峰、東京大学医科学研究所も日本の最先端である。山陰の地方大学へ移ることに怖さはなかったのか。そう問うと中村は、鋭いところをつきますねと苦笑いした。

「東大というネームバリューがなくなるわけですから無謀だ、助成金が取れなくなると言う人もいました。正直なところぼくはあまり深く考えていませんでした」

2012年、鳥取大学大学院医学系の准教授として、8トントラックに研究用の機材を詰め込んで米子に戻った。その機材を見て、鳥取大学の人間は目を丸くしたという。

ここまで大量の機材を持ち込んだ人間はいなかったのだ。中村は医学部医学科准教授を経て、2023年から教授となった。

今のところ鳥取だからと困ったことはないですね、と中村はうそぶく。

現在、彼が注力しているのは、がんの「ウイルス療法」の創薬である。まずウイルスベクターによりがん細胞を溶解させる。その際、壊れたがん細胞から「抗原」が放出される。この抗原を患者の免疫細胞が認識し、残ったがん細胞を排除するという仕組みである。

創薬では動物実験、そして人間への臨床試験をくぐり抜けて製品化にたどり着く。その期間は10年から20年、確率は3万分の1と言われる。

2015年、中村は「腫瘍溶解性ウイルス」をアステラス製薬と共同研究、2018年に独占的ライセンス契約を結び、翌2019年に臨床試験を開始した。異例の速さで臨床試験まで漕ぎつけることができたのは、早い段階で製薬会社を巻きこんだからだ。

中村の頭にあるのはメイヨークリニックでの経験だ。

あるとき、教授のラッセルから投資家との交渉に同席しろと言われたことがあった。待ち合わせ場所に指定されたのは、ロチェスターの飛行場だった。普段は使用しない駐機場に2台のプライベートジェットが停まっていた。扉を開けると、男が我々の会議室にようこそと迎えた。機内とは思えない豪華な内装だった。

「投資家だから専門的な話はできないと思ったら、そうじゃなかった。研究者あがりのベンチャーマインドを持った人で、次々と質問してくる。お前らのチームにいくら出せば何ができるのか、3分で説明しろ、みたいな感じです。

ぼくたちは研究者であると同時に投資家を説得するビジネスマンにもならなきゃいけないんだと思いました。カルチャーショックでしたね」