「特効薬を作ってがんという仇を討ってやろう」

いよいよ危ないと連絡を受けて札幌の病院に駆けつけると、父はすでに息を引き取っていた。自動車修理工場は閉鎖、葬儀社は母親が引き継いだ。父はこう言い残していた。子どもたちには好きなことをやらせるように、と。

「それまでは車が好きだったので(父と同じ)整備士が頭にありました。父親ががんで急に亡くなったことで、特効薬を作ってがんという仇を討ってやろうと思ったんです」

中村の高校時代は、遺伝子治療が人口に膾炙かいしゃする時期と重なっていた。そこで鳥取大学医学部の生命科学科を進路として選んだ。

試験管の中のDNA螺旋のイメージ
写真=iStock.com/undefined
※写真はイメージです

生命科学とは生物、科学、物理学の基礎的な学問と医学、工学などの実学から生命現象を総合的に研究する学問である。鳥取大学医学部生命科学科は全国に先駆けて1990年に設置されていた。中村は4期生にあたる。

「元々研究に興味がありました。自分の性格を考えたときに患者さんを診るのは得意じゃない。興味があることを寝ても覚めても考えるという感じなんです。何か新しいものを作りたいというのもありました」

とにかくがんの遺伝子の研究をしたい

鳥取は寒さも田舎度も北海道と変わらなかったのですんなり馴染めましたと中村はいう。

「入学前、(鳥大は)これから遺伝子治療を推していくという話だったんです。しかし、入ってみたら専門の先生がいなかった。今でこそ、がんは遺伝性疾患等に対する遺伝子治療薬が相次いで承認され、現実のものとなっていますが、当時は実際の患者さんで上手くいった例が少なかった。

大学院に進んで必要な論文を書き上げてから、どうしても遺伝子治療をやりたいと当時の先生に相談したら、(鳥取大学大学院に)籍を置きながら、別のところに行けばいいとおっしゃったんです。普通はありえない。ぼくは人に恵まれているのかなと思います」

それぐらいがんの遺伝子の研究をしたいというオーラが出ていたのかもしれませんと笑った。

中村が門を叩いたのが公益財団法人がん研究会――通称・がん研だった。がん研は1908年に設立された日本初のがん専門の研究機関である。このとき豊島区上池袋にある癌研究会附属病院を拠点としていた。

「全国から優秀な人、がんの研究をやりたいという人が集まっていました。研究費もふんだんにありましたし、鳥取にはない刺激がありましたね。朝10時ぐらいから夜中の3時、4時まで実験して論文を書くという生活。ボス(上司)からやれと言われたのではなくてやりたいことがたくさんありすぎたんです」