親や社会は子供たちの持つさまざまな特性とどう向き合えばいいか。鳥取大学医学部附属病院脳神経小児科教授の前垣義弘さんは「発達障害は自閉スペクトラム症、ADHD(注意欠陥多動症)、限局性学習症(学習障害)などの総称である。発達障害の傾向がある子どもは全体の10から20パーセントに及び、とりだい病院のある鳥取県では5パーセントが病院に通う。たとえば我慢が苦手な傾向にあるADHDの子どもを持つ親御さんとは、一緒に工夫してお子さんに対する作戦を考えていく」という――。

※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 16杯目』の一部を再編集したものです。

全国の国立大学で小児神経学の専門講座を持つのは岡山大学と鳥取大学の二つのみ。前垣はそこで様々な「特性」を持つ子どもたちと向き合っている。薬など根本治癒の方法はない場合も多い。
撮影=中村治
全国の国立大学で小児神経学の専門講座を持つのは岡山大学と鳥取大学の二つのみ。前垣はそこで様々な「特性」を持つ子どもたちと向き合っている。薬など根本治癒の方法はない場合も多い。

「国境なき医師団」のように人を助ける医師になりたい

前垣義弘が医師の道を考えたのは高校3年生の春のことだった。

この年、81年は国際連合が定めた「国際障害者年」だった。交通事故、病気、精神病、脳性麻痺、てんかんなどで〈各国の人口の少なくとも10人に1人は何らかの機能障害をもっている〉と国連は定義している。国際障害者年に合わせてテレビで「国境なき医師団」の活動を取りあげていた。彼ら、彼女たちのように人を助ける医師になってみたいと思ったのだ。

ただし、この時点で現実味は薄かった――。

前垣は1962年に兵庫県北部の香美町で生まれた。香美町の面積は368平方キロメートル。千葉県市原市とほぼ同じ。622平方キロメートルの東京23区の半分強の広さである。美しい海を下に望む余部橋梁で知られる日本海側、山深い地域が含まれる。前垣が育ったのは後者である。

「小さな牧場があって牛を10頭ぐらい飼っていました。夏は放し飼いでしたね」

人口は1970年に約2万8000人を頂点に緩やかに下っていた。前垣の時代は小中学校は学年2クラスだった。小学校低学年の頃、プロ野球選手に憧れた。しかし、学校には野球部がなかった。チーム結成に必要な人数が集まらなかったのだ。高校は地元の公立高校に進んでいた。

「塾や予備校も何もないところなんです。町のちっちゃな書店にある参考書を買って、自分で勉強していましたね」