「ボンカレー」の翌年にはレトルト食品を発売

三林憲忠が父親の跡を継いで社長になったのは1982年、彼は29歳だった。

同社の売り上げを見ると1967年が2億円で82年が100億円。15年で50倍になっている。

三林は「レトルト食品をスタートさせ、拡充したからです」と言った。

「大塚食品の『ボンカレー』が出たのが1968年。日本のレトルト食品の第1号です。翌69年、当社は『釜めしの素』を出しました。大塚食品さんはレトルト殺菌窯を輸入したけれど、うちは自社開発しました。調味料分野から食品分野へ進出したわけです。以後、釜めしの素を皮切りに、ミートソース、パスタソースなどのレトルト食品を作り、販売しました。このレトルトの技術がタイカレーに生きているんです」

タイで仕事を始めたのは彼が社長になって7年目、1988年だった。日清製粉と合弁で缶入りミートソースを生産する工場を建設、製品は日本に輸出した。

1995年、三林は地元タイの大手ビールメーカーのオーナーと懇意になり、醤油工場を建設、日本風味の醤油を売ることになった。買ってくれたのは、まずはタイに進出している日本料理店だった。その後、タイでも人気のあられや焼き鳥の加工用に売れた。日本の醤油は地味ではあるけれど、ヒット商品になったのである。

日清製粉との合弁、日本風味の醤油工場を経て、三林は「次はタイの食文化を日本に伝えたい」と考えるようになった。

ヤマモリのタイカレー・タイフード
撮影=プレジデントオンライン編集部
ヤマモリのタイカレー・タイフード

現地の味を、日本人の品質管理と感性で作る

「はい、その通りです。私は一生懸命、日本の食文化の代表である醤油をタイで作って売ってきました。タイでもうけさせていただいたのです。次は何か恩返しをしなければならん。しからばヤマモリはタイの食文化を正しく日本に伝えるべきと思ったんです。その頃、日本の人たちはタイ料理といえば屋台で食べる丼飯だと思っていた。日本にあったタイ料理屋もそういうところばかりだったんです。

また、私は都内のスーパーへ出かけていってタイ関連の食品を買い集めてみました。そうしたら、現地で作った粉末調味料のミックスみたいなものしかなかった。説明はタイ語だし、包装もよくない。とてもじゃないけど日本のマーケットでは広まらないな、と。味は現地の味そのものでいい。ただし、日本人の品質管理で、日本人の感性で作る。そして、レトルト食品でタイの本物の味を伝えよう。そう思ったのです」