氷菓メーカーの赤城乳業(埼玉県深谷市)の人気商品「ガリガリ君」は、年間20種類の新製品が出ている。そのなかにはコーンポタージュ味やナポリタン味などの「変な味」もあり、話題を集めている。その狙いはどこにあるのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが担当者に聞いた――。(前編/全2回)
ガリガリ君 ソーダ(スティック)
写真提供=赤城乳業
ガリガリ君 ソーダ(スティック)

新商品がすぐに売れなくなるのは日本だけ

菓子、スナック、スイーツ類の棚には多様な種類の新しい味がある。期間限定商品、地域限定商品もある。加えて、コンビニが開発したプライベートブランド商品が並ぶ。

その大半はヒットせず、定番にもならず、あっという間に消えていってしまう。コロナ禍でも堅調なのは、定番のヒット&ロングセラー商品を持つ食品会社だけだ。

あるコンビニの幹部が嘆いていた。

「今、コンビニに並ぶ食品は3カ月以内に、ほぼ変わってしまうんです。変わらないのは定番商品だけ。こんな状態は日本のコンビニだけなんですよ。海外の同業者に『新商品が3カ月もたない』と打ち明けたら、『ホワット? アンビリーバブル!』とあきれた顔をされました。メーカーもわれわれもやろうとしているのはとにかく定番商品の開発です。商品寿命が短くなっている時代ですから、定番商品の価値はますます高まっているのです」

つまり日本の食品会社が成長していくためには新商品を開発し、ヒットさせ、同時に定番商品を確立することが大切だ。そして、この両輪を上手に、かつハイスピードで回している企業がある。「ガリガリ君」で知られる赤城乳業だ。

冷蔵庫を冷やす「氷屋」から氷菓メーカーへ

赤城乳業(売り上げ484億円、2021年実績)の前身は戦前、1931年に埼玉県の深谷駅前で生まれた合名会社広瀬屋商店だ。

広瀬屋は天然氷を販売する、いわゆる氷屋こおりやさんで、正確には氷雪販売業という。戦後の高度成長期に「電気」冷蔵庫が普及するまで、氷屋さんは全国の町々にあった。氷で冷やす冷蔵庫を持つ家庭に毎日のように氷を運んで売る商売だったのである。

広瀬屋は戦後の1949年には冷菓製造、つまり、かき氷の販売を始め、1960年には合名会社赤城乳業と社名を変更する。氷屋さんなのに、「乳業」と付けたのは「氷菓(かき氷)だけでなくアイスクリームも扱い、食べる楽しさを追求した『ドリームメーカー』になりたい」という希みがあったからだろう。

同社における最初のヒット商品は1964年に売り出した「赤城しぐれ」という渋いネーミングの氷菓だった。かき氷をカップに詰めたもので、いちご味、あずき味などがあり、翌65年には10億円もの売り上げを記録している。

当時、かき氷は氷屋さんの店頭で食べるものだった。家庭に電気冷蔵庫は普及していたが、冷凍スペースはわずかなものだった。アイスクリームも氷菓も買った場所で食べるものだったのである。

だが、赤城しぐれは買って、持ち帰ることができた。凍ったままよりも多少、時間がたったほうが食べやすくなったので、おやつとして食べることができたのである。