驚くほど扱いが小さかった訃報記事
小林一三は、昭和三十二年、一月二十五日午後十一時四十五分、急性心臓性喘息により逝去した。八十四歳であった。前年夏から心臓が弱り、一進一退を繰り返していた。調子のよい時期もあって、何度か上京もした。
新聞の扱いは驚くほど小さかった。せいぜい五、六百字程度の記事である。鉄道経営や、住宅、百貨店、舞台興行などへの貢献の大きさには釣り合わない。告別式は一月三十一日、宝塚音楽学校葬として行われた。
弔辞は石橋湛山総理の代理の平井太郎郵政大臣と天津乙女が読んだ。この日、病気療養中の石橋は岸信介外務大臣を総理大臣に指名し、小林の仇敵に宰相への道を開いた。
小林の墓は池田の大広寺にある。応永年間に創設されたこの古刹は、代々池田城主の菩提寺であった。閑静な境内の奥、多竹林に囲まれた一角に、小林と妻コウの墓が建っている。地にほどよく苔がついていて、丹精が絶えていないことが窺える。独創と熱心と緻密により、文化と理念と希望を生み続けた人にふさわしい。
「この世の中に私ぐらゐ幸運な人はあるまいと信じてゐる」(「私から見た私」)と書いた男が、そこに眠っている。