部下である岸信介との対立

昭和十五年七月、一三は第二次近衛内閣の商工大臣となった。一三の部下になった商工次官岸信介は、挨拶に赴いた。一三は、初めから、喧嘩腰だった。

「岸君、世間では小林と岸とは似たような性格だから、必ず喧嘩をやると言っている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一、君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したといわれるだけで、ちっとも歩がない。負けることはないけれど、勝ってみたところで得がない喧嘩はやらないよ」(『岸信介の回想』)

一三にも、初の入閣という事態に対して、かなりの気負いがあったのかもしれない。岸が商工省きっての切れ者、実力者であるという認識も、その口吻に影響を与えたかもしれない。岸の、一三に対する評価はかなり厳しい。

「小林さんはなかなか鋭いけれど、たとえば電気の問題でも、この電信柱は背が高すぎるから切ってしまえとか、電気の本質そのものを問題にするのではなくて、それに関連のある問題について、すぐ処置するという傾向があった」(同前)と、指摘している。

大戦下、商工大臣だった岸は、東條内閣を倒閣するために辞表の提出を拒んだ。戦前の内閣制度では、閣内不一致の場合、当の大臣が自主的に辞表を出さないかぎり、内閣は倒閣してしまう。憲兵隊による執拗しつような脅迫に対して岸は屈することをせず、東條内閣を総辞職に追い込み、終戦への道筋を作った。この功績は、岸信介にとって安保改定と並ぶ、あるいはより巨きな功績といえるだろう。

岸は一三にとって敵視するのではなく、懐に入れて働かせるべき人物だった。その岸を、一三が認めなかったのは、残念至極である。

昭和二十六年、民間放送が認可されて、ラジオ東京(現在のTBS)が発足した時、その運営にかかわることになっていた毎日新聞社専務の鹿倉吉次は、一三に相談した。一三の反応は、思いがけないものだった。

「アメリカでは、商業放送がたいへん発展したのは事実だ。だが、日本では、すでにNHKがあるから、聴取者は、広告放送をきかない。だから成功するはずがないから、止めた方がいい。NHKを分割するならともかく、他に作るのは賛成できない」

鹿倉は、すでに約束したことなので、と謝意を述べ、一三邸を去った。数年後、一三は、鹿倉の家を訪れ、頭を下げたという。

「今日は君に謝りに来た。ラジオに対する見通しを完全に間違えていた、今日はその取り消しにやってきたのだ」(『小林一三翁の追想』)