幼少期からひとり娘に過干渉な母親。その生い立ちや境遇には同情すべきものもあったが、娘はいつも窮屈な思いをさせられてきた母から一刻も早く逃れるべく、実家を出て結婚した。だが、77歳になった母親は真夏に毛糸のセーターやダウンを着て歩くなど、言動がおかしくなった。それ以来、娘は「1人ぼっちにした私のせい」という罪悪感に苛まれてきた――(前編/全2回)。
夕暮れ時親の手を握って少女のシルエット
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この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

養父母に育てられた母親の複雑な生い立ちと境遇

現在東北在住の小林都子さん(50代・既婚)は、大学時代、サークルで出会った夫と20代後半で結婚。3年後に長男を出産し、その後、3歳違いで長女が生まれ、家族4人で幸せに暮らしていた。だが、その後は山あり谷あり。聞けば、幼少期から親に悩まされ続けてきた波乱の人生だったという。

関東地方のある県で生まれ育った小林さんは、1歳のときに父親を交通事故で亡くしているため、父親の記憶はまったくない。

自分を女手ひとつで育ててくれた母親に小林さんは感謝しているが、その一方で複雑な感情を抱いている。小林さんの母親は数奇な人生を歩んできた。母親の実母は産後すぐに亡くなり、実父は乳飲み子を1人で育てられないと判断。やむなく養女に出したため、小林さんの母親は、育ての両親のもとで育った。

小林さんの母親は、子どもの頃から養父母に我慢を強いられて育った。その極めつけは、小林さんの母親が34歳の頃、勝手に4歳年上の男性を婿養子に迎え結婚させたことだった。そのまま養父母の家で結婚生活を始めた小林さんの母親だが、その生活は長くは続かなかった。

なぜなら、婿養子にきた夫がほどなくして交通事故で亡くなってしまったからだ。母親は、たった1人で小林さんを育てることになった。

ところがその4カ月後、79歳だった養母(小林さんにとって母方の祖母)も病気で亡くなってしまい、実家には当時72歳の養父(小林さんにとって母方の祖父)、37歳の母親、2歳の小林さんの3人だけになる。

「母にとって、実家は自分の居場所ではありましたが、育児や祖父母の世話など、しんどいことも多かったと思います」と、小林さんは推測する。

小林さんの父親が交通事故で亡くなった後、父親の兄弟が「形見分け」と言って養父母の家にやってきて、父親が大切にしていた物をほとんど持ち帰ってしまった。それ以降、母親は父方の親族を信用できなくなり、付き合いは途絶えた。そのため、小林さんは父方の祖父母の顔を知らない。

「79歳で亡くなった祖母は、とにかく身体が弱く、母は物心ついた頃から祖母の身の周りの世話をしていたようです。祖父は寡黙で頑固な人だったため、母は子どもの頃からなかなか自分の意見を言えずに育ったと聞きました」